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 一人息子とともに地方都市ミリャン(密陽)に移り住むシングルマザーの悲劇とそれを見守る男の物語である。監督はイ・チャンドン。シングルマザー役はチョン・ドヨン。彼女に絡んでくる男にソン・ガンホ。チョン・ドヨンはこの映画でカンヌ国際映画祭主演女優賞を受賞した。

物 語
 シネ(チョン・ドヨン)は息子(小学低学年)とともに亡くなった夫の郷里のミリャン(密陽)に行く途中で車が故障してしまう。連絡を受けてやって来たのが小さな自動車修理会社を営むジョンチャン(ソン・ガンホ)だが、そこで彼女に一目惚れしてしまう。それからというもの彼女に住む家を探してやり、何やかやと世話や雑用をして彼女にまつわりつく。

シネはピアノ教室を開き、すぐに生徒もつくが、彼女は、町の人から憐みを受けたくない、弱みを見せたくない一心から見栄を張る。「良い土地があれば買うし、投資も考えている」と近所に言う。密陽は小さな町なので、彼女の噂は広まり、このことで不幸を招いてしまう。息子が誘拐され、法外な身代金を要求されるのだ。預金には土地が買える金などない。犯人から息子を誘拐したと電話がかかってくるときのドヨンの独り芝居は息を呑む。抜群に上手い。結局、息子は遺体で見つかる。

息子を失ったシネは救いをキリストに求め、心の平穏を取り戻した。しかし行く必要もないのに息子を殺した犯人に面会に行き、罪を許そうとする。ところが犯人は「私は神に許された」と彼女に向かって言った。シネは卒倒してしまう。

「私が(犯人を)許す前に、何故、神は彼を許したの」と彼女は絶望し、徹底して神を否定する行動に出る。日常生活からもどんどん逸脱していく。そんな狂気の彼女に、突き放されても、突き放されても、寄り添うソン・ガンホの演技は緊迫した物語の中で可笑しさを誘う。無垢な人なのだ。

ほくのひとこと

題名の『シークレット・サンシャイン』は密陽/「秘密の陽射し」を意味するミリャンからとっている。その題名からして意味深長である。

それと冒頭で青空が車の中のフロントガラス越しに映し出される。それを助手席にいる幼い息子がぽかんとして見つめている場面と、映画の中盤で息子を亡くしたシネが車の助手席から青空を見つめる場面がある。フロントガラスから見える空は、息子が見たときも、母親が見たときも、同じような雲が浮かんでいて、同じ青さだった。ぼくは、その抜けるような空の青さに虚無的なものを感じてしまった。

そしてラストの場面では、庭先でジョンチャンに大きな鏡をもって貰ってシネが髪を切ると、それが束になって落ちて風に吹かれて転がって行く、映画はそのコンクリの地面を映し出して終わる。このときのカメラ/監督の目は、青空の向こうの「天」には何もないんだよと語り、小さな庭の地面を見つめる眼差しからは、足元/現実を見るしかないんだよという監督のメッセージが込められているような気がしたのだが。いずれにせよこの三つの場面は印象に残った。

2013年8月20日 月藻照之進

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 チョン・ドヨンはじつに愛想のわるい女優である。彼女の映画を5本見たが、どの映画でも憮然としていた。相手を睨み「文句があるのか」と目で演技をする。それがじつに上手い。

『素晴らしい一日』は日本の女性作家の短編小説をもとにしている。監督はイ・ユンギ。チョン・ドヨンの相手役はハ・ジョンウ。

冒頭のシーンがいい。長まわしカメラの中でAという人物からBにそしてヒス(チョン・ドヨン)に移って彼女の背中を追ってゆき、駐車場から場外馬券売り場へと、彼女がゆっくりと歩いていくシーンに「なんだろう?」と見入ってしまう。小説でいう視点の移動である。

ヒスはビョンウン(ハ・ジョンウ)を見つけるとものすごい剣幕で「金を返せ」と詰めよる。ビョンウンはヒスの元恋人。彼はヒスから350万ウォン(約35万円)の借金をしたまま姿をくらましていた。ビョンウンはヒスの剣幕に驚くが、すぐに馴れ馴れしい態度で彼女に接し、どれだけ罵倒されても怒らず、ヒスの機嫌をとり続ける。ヒスはそれを撥ねつけ、カネを返せと迫る。ビョンウンにはカネがないため、自分の知り合いの女性を訪ねて金を借りてヒスに返すという。それで彼女の運転する車でビョンウンが知っている女性を訪ねる。尋ね先は、女社長、高級クラブのホステス、婦人警官、エリートサラリーマンの人妻など、おそらく彼はそのほとんどとの女性と関係をしていると思われる。行った先ではヒスが相手の女性との言い争いになったり、2人が偶然出会った夫婦に食事を誘われ、夫が妻の目の前でビョウンウンに「あなたは私の妻と関係を持っただろう」と詰め寄られたり、違法駐車で車をレッカー車で持っていかれたりして、散々な目に遭う。それがゆったりとしたテンポで進んでいく。

ヒスは非正規労働者であり、ビョンウンは事業に失敗した宿無し、ヒスにとっては彼に貸した金は彼女の生活に切実なものだということが分かってくる。そういう韓国の社会状況もチラッと見えた。最後にヒスがシングルマザーに対して優しさを示す場面はちょっと胸が熱くなった(これは見てのお楽しみ)。終わり方が爽やかな映画だった。


2013.8.7 月藻照之進

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 映画は1980年代の軍事政権下に実際に起こった女性連続殺人事件を題材にしているが、物語はあくまでもフィクションである。監督はポン・ジュノ。日本公開は2004年。

冒頭、丸坊主の、小学校低学年ぐらいの悪ガキが麦畑の中からヌッと顔を出す。画面いっぱいにその子の胸のあたりまで伸びた黄色い麦畑の海原が広がる。麦畑と真っ青な空とのコントラストに鳥肌が立った。

暴力的な刑事(ソン・ガンホ)が耕運機の荷台に後ろ向きに乗って畦道をゆっくり走ると数人の子どもが囃し立て、追いかける。それを憮然とした表情でみる刑事。耕運機が石蓋を載せてある側溝の前で止まる。刑事は溝に入って薄暗い石蓋の中を覗き込む。向こうに若い女性の惨殺死体があった。

ソン・ガンホはソウルから派遣された刑事(キム・サンギョン)と事件解決にあたるが、この二人は絶えず対立する。軍事政権下の警察は戦前の日本の特高警察で同じである。逮捕した容疑者を殴る蹴るの徹底した暴行を加え続けて自白を強要しようとするが、いずれも証拠不十分で釈放されてしまう。そうした中で二人の刑事をあざ笑うかのように、雨の日に若い女性が次々と殺されていく。犯人に翻弄される二人の刑事の執念が次第に狂気を帯び、より暴力的になってくる。

結局、事件は未解決のまま終わる。その後、ソン・ガンホはセールスマンになるが、久しぶりに仕事で事件の村を訪れる。彼は殺人現場の近くに車を止め、女性の遺体があった側溝を除くが、そこには何もなかったが、通りがかった学校帰りの少女がとんでもないことを話し出す。このラストに僕は唸った。

この映画の面白さは恐ろしくテンポがいいことと、物語の内容がかなり陰惨にもかかわらずユーモアがある。それが秀逸だ。犯人は陰毛が生えていないという噂が立ち、ソン・ガンホは公衆浴場の湯船で見張り続けるが湯あたりしてしまう、その可笑しさに笑ってしまう。そこがこの作品の緩急自在なところであり、見る人は引き込まれていく。

余談。僕はこの映画をきっかけに韓国映画にハマった。ポン・ジュノ監督の映画は当たり外れがない。『母なる証明』と『グエムル〜漢口の怪物』をお勧めする。もう一つ余談。韓国の好きな俳優は、男優ではソン・ガンホ、女優はチョン・ドヨン。上手い俳優である。唸ってしまう。彼女の映画も機会があれば紹介していく。

2013.7.12 月藻照之進


 

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★今回は「もし、まだ観ていなければ、DVDで シリーズ」ではなく、現在、劇場で公開(大阪地区)されている作品を紹介しよう。フランス語圏のカナダ映画『灼熱の魂』。監督はドゥニ・ヴィルヌーヴ。作品は、キリスト教徒とイスラム教徒の対立によって内戦状態になっている1970年代の中東の国(特定はされたいないがレバノンと思われる)が舞台である。

★中東系カナダ人の60歳を過ぎた女性、ナワル・マルワン(ルブナ・アザバル)は娘のジャンヌ(メリッサ・デゾルモーフ=プーラン)と双子の弟シモン(マキシム・ゴーデット)とともに、プールにやって来る。そこでナワルは、突然、放心状態に陥る。すぐに彼女は入院するが、あっけなく死んでしまう。生前のナワルは公証人の秘書をしていた。その公証人がジャンヌとシモンを呼び、母親が書いた2通の手紙を渡す。それは双子姉妹の、まだ見ぬ父と兄宛のものだった。ナワルは、「自分が死んだら、ジャンヌとシモンがこの手紙を父と兄に渡すように」という遺言を公証人に託していた。しかし父と兄の行方は分からない。ジャンヌは母ナワルの20代のときの写真を持って、母が生まれ育った中近東の故郷へ旅に出る。それはジャンヌの自分探しの旅でもあった。ここから70年代のときの母ナワルの物語と、現代の物語が交差し、内戦の中を生き抜く母親の凄絶な過去が描かれ、双子の姉弟たちの父親と兄の謎も解かれていく。

★ナワルは山間部の村で育った。一家はキリスト教徒だったが、彼女はイスラム教徒の男と恋に落ちる。身内はこれを許さず男を殺してしまう。ナワルも出産した男の子を祖母に取り上げられ、彼女は都会の親戚に預けられる。そして数年後、内戦が勃発。彼女は取り上げられた「私の坊や」を探しに故郷の村へ戻る。ところが故郷の村は焼き尽くされ、子どもの行方は分からない。子を探す道中で、キリスト系武装集団によるイスラム系住民の虐殺を目の当たりにし、その非道さに絶望する。彼女はキリスト教を捨てて,イスラム系のテロ組織に加わり、キリスト教指導者を暗殺する。逮捕されたあと、監獄では、連日、拷問を加えられる。それは、女性として、人間としての尊厳を、徹底して踏みにじるものだった。拷問は15年ものあいだ続く。そして最後に衝撃的な事実を明らかになる。

★おそらくこの物語の下地となっているのはギリシャ悲劇『オイディプス』をだと思う。何百回、何千回と繰り広げられてきた悲劇だ。もう一つ、暴力が暴力を呼ぶ、その報復・連鎖の空しさが作品の底流にある。とはいっても映画は分かりやすく、ひじょうにテンポがいい。謎がどんどん解かれていき、その展開のよさに、物語の中へ一気に引き込まれていった。
                                  2012/1/20 月藻照之進

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★暴力描写がすごい。音楽は一切使用されず、風の音、忍び寄る足音、撃鉄を起こす音が、生々しい。その緊迫感に圧倒された。監督・脚本はイーサン・コーエンとジョエル・コーエンの兄弟。2007年度アカデミー賞作品賞、監督賞、助演男優賞、脚色賞を獲得している。

★時代は1980年。メキシコ国境に近い場所が舞台。乾いた平原が地平線の向こうまで続く。そこでふたつの事件が起こる。一つは保安官殺害。携帯用酸素ボンベの先に消音銃のようなものがついている「凶器」を持った男・シガー(ハビエル・バルデム)が逮捕される。彼は保安官事務所に連行されるが、保安官が電話をかけているスキに背後から襲い、絞殺してしまう。

★もう一つは麻薬に絡む抗争と大金の持ち逃げである。砂漠にいるシカ科の動物を密猟していた男・モス(ジョシュ・ブローリン)は、偶然、小型トラックと数人の男の遺体と数匹の猟犬の死骸を発見する。死体のまわりには薬莢(やっきょう)が散乱し、トラックには大量の麻薬が積まれていた。トラックのドアを開けると、瀕死のメキシコ人が「アグア(水)をくれ」と言う。モスはその男を放置し、丘の方に向かう。頂上の樹の下で男が死んでいて、脇に鞄があった。開けてみると札束が詰まっている。モスはそれを家に持ち帰る。ところが「アグワ」と言った男のことが気になり、ふたたび現場に戻る。そこへ待ち伏せしていた麻薬組織の連中に見つかり、追われる。なんとか難を逃れたモスだったが、放置した自動車から身元が判ってしまう。彼は妻とともに金を持って逃げる。しかし鞄には発信器がついていて、今度は暗殺者シガーが追ってくる。どこまでも、どこまでも。

★細部の描写が生々しい。たとえばシガーが保安官を絞殺する場面。2人が揉みあうなかで、保安官が両足を激しくばたつかせ、ブーツ踵が床を擦る。そのたびに床は鋭い鋼(はがね)のような瑕(きず)がつく。眼を剥いて絞殺するシガーの、その表情とともに踵の黒い瑕がどんどん増えていく場面だ。もう一つ。雑貨屋の店主がシガーに対し、ちょっと口をすべらせたために身の危険にさらされる。シガーはコインを取り出し、「裏か表か、あてろ」と言う。あてたら助けてやると暗示する。指先でコインをピーンと撥ねさせ、カウンターに落として手のひらで隠す。そして「あてろ」と何度も促す。店主の表情は硬直してしまう。もし外れたらどうなるだろう。それまでシガーが自分の前に立ちはだかる人間を次々と殺していく場面が続くだけに見ているものの緊張は高まる。

★本作品でスペイン出身のハビエル・バルデムはアカデミー賞助演男優賞を獲得した。納得できる。厚ぼったい目は一度観たら忘れることはできない。凄みのある野太い声も耳に残る。そんな彼の顔は作品ごとに変ってしまう。『海を飛ぶ夢』(監督アレハンドロ・アメナーバル 2004年作品)では老人役を演じていたが、僕はしばらくのあいだ、それが同じ人物だとは判らなかった。                             2011/11/30 月藻照之進

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 「もし、まだ観ていなければ、DVDで」シリーズ

★本作品は2009年度にアカデミー賞最優秀外国映画賞を受賞している。監督はファン・ホゼ・カンパネッラ。舞台は首都ブエノスアイレス。殺人事件を追う映画だが、サスペンスではない、愛の物語である。観終わったあと、思わず唸ってしまった。

★2000年に刑事裁判所の書記官を定年退職した独身のベンハミン(リカルド・ダリン)は、25年前に担当した殺人事件が忘れられず、それを題材に小説を書いているが、筆が進まなかった。思いあまった彼は、かつての上司イレーネ(ソレダ・ビジャミル)に会いに行く。彼女は検事に昇進しており、2児の母でもあった。この2人の会話を通じて、物語は軍事独裁政権が成立する直前の70年代に遡っていく。

★1974年、イレーネはアメリカの大学を出て、刑事裁判所に判事補として着任し、ベンハミンは彼女の部下として働くことになる。その直後、新婚早々の若い女性の殺人事件が起り、ベンハミンはイレーネとともに捜査にあたった。アルゼンチンの刑事裁判所の書記官には捜査権限が与えられており、警察と一緒になって現場検証もおこなう。

★ベンハミンは被害者の夫に事情聴取する。「犯人には生きていて欲しい。空虚(くうきょ)な日を送ってほしい」と夫はつぶやく。この言葉がベンハミンの心にいつまでも残る。やがて被害者の知り合の男が犯人だと分かるが、犯人は逮捕される直前に姿をくらましてしまう。

★1年後、ベンハミンは、偶然、駅構内の椅子に座っている被害者の夫と出会う。彼は仕事が終わったあと、列車から犯人が降りてこないか、毎日見張っていると話す。夫の行為にベンハミンは心をつき動かされ、ふたたび捜査を進める。やがて執念が実って犯人は逮捕される。ところが、あろうことか、犯人は、別の担当官によって、左翼ゲリラの居場所を教え、左翼勢力を破壊するという条件で釈放されてしまう。おまけに銃の携行まで許されて。ベンハミンとイレーネが釈放した担当官のもとへ抗議に行くと、担当官はベンハミンを罵(ののし)った。「彼女(イレーネ)は法学博士だが、お前は高卒だ。金持ちと貧乏人、価値ある人間とない人間、生きる世界がちがうんだ」と。このセリフが選別と差別のファシズムの到来を予感させる。やがてベンハミンの身に危険が迫ってくる。

★この映画は「眼差し」がキーワードになっている。ベンハミンがイレーネを見つめる眼差し、イレーネがベンハミンを見つめる眼差し、被害者の夫の、瞳の奥に秘める亡き妻への眼差し、そしてその夫が犯人を見る眼差し、ともかく物語の展開の上手さ巧みさに、すっかり魅了されてしまった。
2011/11/30 月藻照之進


 

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今井正監督 没後20年によせて/たしかな「視点」

★高校生のとき、今井正の『仇討』(あだうち)(東映・1964年)を観て衝撃を受けた。次の日、映画好きの同級生にそれを話したけれども、「日本映画はもうあかんで。時代劇は落ち目もええとこやで」と、彼は僕の「衝撃」を一蹴した。

★実際、そうだった。その頃、もう東映などの時代劇は全盛期を過ぎていた。それに黒澤明の『用心棒』(東宝・1961年)や『椿三十郎』(東宝・1962年)の、あの重厚な映像に触発されて、チャンバラ映画は一変していたのだ。どの時代劇も黒沢の「作風」を真似た。とくに、この2作から始まった、剣で人を斬るときの音、肩口から噴射する鮮血、そうしたグロテスクなリアルさだけを真似た。ともかく時代劇は陰惨ものに変わってしまった。しかし、それは黒澤映画の上面(うわつら)を模したに過ぎない。

★たしかに『用心棒』と『椿三十郎』は、画面は暗く、息苦しいところもある。しかし、脚本の出来がちがう。実によく練られており、他の追随を許さない。そこには黒澤の批評の精神が息づいている。権力者に対する徹底した批判があり、それはときに脱兎(だっと)のごとく描かれる。その滑稽さ。科白(せりふ)も洗練されている。例えば、『用心棒』では、浪人・三船敏郎が、自分を助けてくれた酒屋の親父がヤクザに捕らえられたと聞いて、懐に手裏剣がわりの出刃包丁をしのばせ、刀を握り締め、親父を助けに行くときの科白。「あいつらを、たたっ斬ってやる」ではなく、「刺身にしてやる」なのである。深刻なシーンに、その絶妙な間、思わずニヤリとしてしまう。この「間」が模倣作品にはない。だから笑いもなく、妙に深刻ぶって面白くないのだ。

★話を『仇討』に戻そう。「ともかく、だまされたと思って、観てみぃや」と僕は友人に食い下がった。しかし、彼は返事をしなかった。3日後、休憩時間のとき、友人は校庭にいた僕を見つけて走ってきた。「おい、あの映画、おまえのいう通りやった、凄かったわ」と言った。少し興奮していた。

★『仇討』の主演は萬屋銀之助(よろずやきんのすけ)。当時の姓は中村である。脚本は橋本忍。物語は江戸時代。江崎新八(萬屋錦之助)は、些細(ささい)なことで、武士の面子(めんつ)を潰されたと上役の奥野孫太夫(神山繁)と果し合いをして、孫太夫を斬殺してしまう。争い事はご法度である。もし、このことがお上の知るところとなれば、喧嘩両成敗で両家とも潰されてしまう。両家は「2人は乱心ゆえの死闘だった」ということにして、新八は山寺に預けられる。しかし、孫太夫の家督を継いだ弟主馬(丹波哲郎)は収まらない。単身、山寺に乗り込んできて、新八を斬ろうとするが、逆に返り討ちされてしまう。今度は奥野家全体が騒ぎ出し、「仇討」を藩に申し出て、藩はそれを許可する。このことを知った山寺の住職は、新八に出奔(しゅっぽん)するように進めるが、そこへ新八の兄がやってきて「両家のために斬られてくれ」と説得する。やむなく新八は「潔く斬られよう」と覚悟を決める。そして、「仇討」の前日、自らの剣の刃をこぼして斬れなくする。「仇討」は公開でおこなわれた。城下から見物人が続々と集まってくる。果し合いがはじまった。新八は奥野家の家督を継いだばかりの若武者に斬られるつもりで臨んだが、奥野家を加勢する数十人が「仇討」場に乱入してくる。卑怯なり。自分は見せしめのために嬲(なぶ)り殺しにされるのか。この「仇討」の場は「騙し討ち」の場だったのか。おのれッ。新八は、逆上し、絶叫しながら、刃を落とした刀を振りかざして向かっていく。しかし、多勢に無勢。

★この映画も『用心棒』『椿三十郎』と同じモノクロで、画面も内容も相当に重苦しいが、多くの模倣作品とは違う。そこには今井正の確かな「視点」がある。それは権力の理不尽さに対する憤りである。だから、この映画を観終わったあと、僕も友人も唸ってしまったのだ。

★今井正は青年時代にマルクス主義の影響を受けている。しかし、1935年に東宝に入社してから、おそらく本意ではなかったであろうが、太平洋戦争中には戦意高揚映画を作った。戦後はその反省からか、『青い山脈』(1949年)、『また逢う日まで』(1950年)など、反戦映画と民主主義を高らかに謳いあげる作品を数多く作っている。その後、今井正はレッド・パージによって東宝から追放されて、一時期、生活は困窮する。しかし、山本薩夫(『真空地帯』や『野麦峠』の監督)らと共に独立プロを創立し、『どっこい生きてる』(1952年)などを作る。1953年には戦争映画の傑作『ひめゆりの塔』を監督している。その後、次々と名作を世に送り出すが、晩年は恵まれず、『戦争と青春』(1991年)が最後の作品となった。

★今井監督の好きな作品を三つあげるなら、一番目は文句なしに『にごりえ』(1953年 原作・樋口一葉)だろう。二番目は『越後つついし親不知(おやしらず)』(1964年 原作・水上勉)。そして1番目、2番目とは甲乙つけがたいけれども、3番目には『武士道残酷物語』(1963年 原作・南条範夫)をあげておこう。この三作品の基(もと)いは、貧しさゆえの辛さ、悲しみ、それに耐え抜く人たちへの優しい眼差(まなざ)しだろう。そして、繰り返すが、日本風土に沈殿している「非合理主義」(歴代権力がおしつけてきた、自助・相互扶助=「共助」といっておけば、それでよいだろう)に対する憤りである。

★『にごりえ』は日本映画史上で屈指の傑作だ。樋口一葉の小説群の、あの文体の息遣いを壊さずに映像化している。これは驚きというほかない。作品の題名は『にごりえ』だが、『たけくらべ』(主演・美空ひばり)、『おおつごもり』(主演・香川京子)などが入っており、オムニバス形式となっている。とくに『にごりえ』がいい。娼婦・お力(淡島千景)が子どもの頃を回想する場面がある。真冬でも薄い着物しかない貧乏な生活で、母親がなけなしの金をお力に与えて、米を買いに行かせる。ところがその帰り道、水溜りに張った氷に足を滑らせて転倒し、持っていた鍋の中の米を泥水にぶちまけてしまう。ベソをかき、途方に暮れるお力。今井監督と小説家・樋口一葉の、市井の人々を見つめる、冷徹だけれども、その優しい眼差しが重なりあう。

★一葉の文体に初めて接した人の多くは、その「異様さ」(この表現は不正確かもしれないが)に面食らうだろう。僕もそうだった。『にごりえ』と『たけくらべ』を読むことは読んだけれど、どうしても頭の中に入ってこない。その後、ある批評家が、一葉の文体というのは、会話にカギ括弧がついておらず、地の文と一体となっているから戸惑ってしまうのだ、と書いていた。僕はそのことを意識して再読した。すると躍動感あふれる一葉の言葉が、僕の身体にどんどん入ってきた。僕は全作品を一気に読んでしまった。恐らく、今井正は、一葉の小説を何度も読み返したと思う。そして、その一葉の文体を自らの身体に一体化させて、『にごりえ』を作ったに違いない。

★『越後つついし親知らず』の背景にも貧困がある。時代は日支事変の始まった年(昭和12年)、日本が軍国主義一色に染まっていく時代。留吉(小沢昭一)と権助(三國連太郎)の2人は、越後で米作りを生業(なりわい)としているが、農閑期には、毎年、京都・伏見に酒造のために出稼ぎに行く。いわゆる杜氏(とうじ・酒造り職人)である。留吉は大人しく働き者で、おしん(佐久間良子)という美しい嫁がいる。権助はそんな留吉を妬んでいた。その年、権助は留吉より一足先に伏見から故郷に帰ってくる。そして、ある日、欲情に駆られた権助は、おしんを犯してしまう。さらに、不幸にも、おしんは権助の子を身ごもる。なんとかお腹の子をおろそうとするけれど、できない。やがて留吉が帰ってくる。彼女は留吉と姑にこのことをひた隠しにするのだが、ひょんなことから、お腹の子の親は権助だったことが分かってしまう。怒り狂った留吉は、水田の真ん中で、おしんをなぎ倒して首根っこを摑まえ、顔を泥田の中に押しつける。泥まみれになってもがくおしん……荒涼とした雪の越後不知火の風景がとても印象的な作品だった。

★『武士道残酷物語』は『仇討』の前年に製作され、ベルリン映画祭で金熊賞を受賞している。ぼくは、これを『仇討』から10年後にある地方の映画館で観た。自己犠牲を強いられる武士の家系の、戦国時代から現代までの7世代の物語である。常軌を逸した封建的「忠義」のありよう、それに対して、ほとんど疑問も持たずに「忠義」を尽くす家臣、その不条理さを描く。これも中村錦之助(萬屋錦之介)が力演している。

 

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★1996年にアルジェリアで実際に起こった、修道士の誘拐・殺害事件を題材にしたフランス映画である。2010年にカンヌ映画祭でグランプリを受賞している。監督はグザヴィエ・ボーヴォワ。

★アルジェリアの山間部にあるカトリックの修道院が舞台。戒律の厳格なシトー派に属する、8人の修道士(フランス人)たちの日常の姿を、カメラは映し出す。修道院の裏に畑を作り、それを糧(かて)として自給自足の生活を営む。彼らは、礼拝と聖歌を歌う以外は沈黙し続け、神への儀式をこなしていく。しかし、修道院のある村の、貧しい人々への奉仕は、優しく話しかけ、微笑みながら行う。修道士の中には、医師免許を持った人もおり、無償で治療にあたる。村人はイスラム教徒だが、心から修道士を頼っている。静寂に満ちた修道院と、アルジェリアの荒涼とした景色が奇妙なほど溶け合う。

★こうした平穏無事な日々も、1990年初頭に勃発(ぼっぱつ)した内戦によって、修道士たちに身の危険が迫ってくる。物語の前半、イスラム原理主義と思われる武装集団が工事現場に現われ、そこで働く12人クロアチア人を鋭利な刃物で惨殺する。そこから一気に緊張感が高まる。アルジェリア政府は県知事を介して、帰国を命ずる。村人は行かないでほしいと懇願する。彼らを見捨てることはできない。しかし、残れば、確実に「死」が、そこにある。修道士たちは迷う。残るべきか否か。彼らは、苦悩ながら修行を続ける。

★アルジェリアは19世紀初頭(1830年)から、フランスに植民地にされていた。1954年、アルジェリア国民の中に、「民族解放戦線」が結成され、独立戦争を起こす。戦争は約7年に及び、1962年に独立を果たし、「民族解放戦線」が政権の座につく。しかし、同政権は、旧ソ連型の一党独裁を強め、国民に政治的自由を認めなかった。こうした政治が続く中で、政治は腐敗し1980年代後半に経済政策は失敗する。約50%の失業者率となり、貧困が拡大する。国民の、政治に対する怒りが一気に高まる。1989年、政府は、この国民の怒りをかわすために複数政党制を認めた。同年、貧困層と都市知識層を中心に「イスラム救済戦線」が結成される。この「救済戦線」は、イスラム教を基礎(イスラム原理主義)にした国づくりをかかげ、1991年末の選挙では第1党になる。ところが、1992年始めに、政府と軍部が結託して選挙を無効にし、「イスラム救済戦線」の指導者たちを逮捕する。そして、同「戦線」を解散させてしまう。これを契機にして、貧困層の青年たちを中心にテロ組織(武装イスラム集団)が結成され、政府要人や軍の幹部を暗殺する。それが外国人にも及ぶ。とくに異教徒であるキリスト教関係者が標的にされる。1992年以降、アルジェリアは内戦状態が続く。

★クロアチア人が襲われて以後、聖職者たちに身の危険が迫り、彼らの心は揺らぐ。カメラは彼らの表情を直視する。克明に、容赦なく。歴史大作といわれる映画にありがちな、殉教死する信者たちの、その晴れやかな表情のまま、「死」を迎えるというような、そんな甘さは微塵もない。

★修道院に残るかどうかを決める会議をする。この国を去るか、それとも残るか。何人かの修道士は、それを決めかねる。リーダーは言う。修道士としての日々の務める中で。もう一度、自らの心に問うてみよう、と。その自問自答に耐えかねた修道士が夜中に泣き叫ぶ。その声を他の修道士が各人の部屋で聞く。泣き叫ぶ者、それを聞く者の顔が映し出される。そして彼らは意思を固めていく。

★数日後、全員は残ることを決める。その夜、チャイコフスキィーの「白鳥の湖」のテープをかけながら食事をとる。それを聴き、食事をする一人ひとりの笑顔が、やがて涙に変わっていく。そして、真夜中にテロ集団が乱入してきて、彼らは拉致される。

★強く印象に残ったところがある。知事が修道士を呼びつけ、帰国命令書を渡すときだ。知事は言葉を荒げて言う。テロや内戦状態になった、その根本原因は、「フランスのせいだ」と。この言葉の意味は重い。他国を侵略し、植民地化しするなど、その国の人々を蹂躙してきた本質を暴き、それをズバリという映画は、少ない。
2011.4.27 月藻照之進

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★原作はイギリス作家カズオ・イシグロの同名小説、監督はマーク・ロマネク。作品はSF映画であり、映画史上初めて描かれる物語と喧伝されているけれども、それは配給会社が観客を動員したいがための宣伝文句であろう。しかし、映画は単なるSFではない。もっと深い、主人公のキャッシー(キャリー・マリガン)の語りを通して(原作もそうだった)、「生命」とはなにかを語りかける。作品はSFでミステリー調なのであまり多くは語れない。

★1960年代後半から1990年代前半にかけての物語である。映画の冒頭、科学の発達によって人類は100歳まで生きられるようになった、と字幕が出る。これが1つ目のキィーワード。そして、世間から隔絶されている寄宿学校「ヘールシャム」で学ぶこどもたちが映し出される。緑濃いイギリスの田舎の光景と、古くて威厳のある石造りの校舎が。10歳代前半の、キャシー、ルース(成人してからキーラ・ナイトレイ)、トミー(成人してからアンドリュー・ガーフィールド)を軸に物語は進んでいく。学校では絵や詩の創作を重視する。これが2つ目のキィーワード。そして、この学校のありかたに疑問を持つ女性教師が授業中に子どもたちの前で、子どもたちの運命を明かす。あなたがたは20歳ぐらいまでしか生きられないのよ、と。これが3つ目のキィーワードになるだろうか。やがて18歳になった3人はコテージに移り住み、青春を謳歌し、恋もするが……。

★原作者の話に移ろう。カズオ・イシグロは5歳のときに両親とともにイギリスに渡った。イギリスの大学を出て、同国に帰化している。日本語はあまり話せないらしい。『日の名残り』でイギリス最高の文学賞、ブッカー賞を受賞する。この作品も映画化された。主演はアンソニー・ホプキンスとエマ・トンプソン、監督は『眺めのいい部屋』のジェイムス・アイボリー。味のある作品だ。DVDが出ている。お勧めする。それはともかく、当初、イシグロは、『わたしを離さないで』を、「核の問題」をテーマに書こうとしたが、2度中断している。しかし、1995年、イギリスでクローン牛が誕生したのを機に、それをテーマに本作品を完成させる。これが最後のキィーワードということにしておこう。

★ともすれば、たとえばハリウッド映画なら、みずからの運命に逆らい、叛乱を起こす「若者譚」となってしまうけれど、小津安二郎が好きだというカズオ・イシグロは、限られたみずからの「生命」を受容する若者たちを描き、何事もなかったかのように物語を終わらせてしまう。その静謐(せいひつ)さが、かえって、私たちに、「科学のありよう」とはなにかを突きつける。先進国の文明は、多くの犠牲と、一歩まちがえば人類が絶滅の危機に瀕する上になり立っている。その「危うさ」をこの映画に感じてしまった。それは、ぼくだけだろうか。                      2011.4.11 月藻照之進

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★韓国映画は濃い。その濃密さが最後まで継続する。そんな映画が多い。ぼくは『殺人の追憶』(2003年、監督・脚本ポン・ジュノ、主演ソン・ガンホ)を観て衝撃を受け、それいらい、これと思う韓国映画は観ている。そして観た映画はすべて予想を裏切らなかった。

★当然、『戦火の中へ』も期待を裏切らなかった。監督はイ・ジェハン、主演はチャ・スンウォン。1950年に北朝鮮軍が韓国に侵攻し、朝鮮戦争が勃発する。映画は、開戦から1ヶ月あまり、北朝鮮軍は首都ソウルを占領し、さらに南下を続け猛攻をかける。劣勢に立たされた韓国軍は、最後の砦である洛東江を守り抜くために、そこへ全兵力を投入しなければならなくなった。命令を受けた大尉は、野戦病院として使用されていた浦項の女学校校舎の守備を、あらたに送られてきた学徒兵に命ずる。なかには学生ではなく、殺人未遂で少年院に収監されていた3人の不良グループも混じっていた。

★71人の学徒も3人以外は、学生からいきなり兵士になり、銃の撃ち方も分からなかった。その3人も、数回戦場に出た経験があるものの、とても戦闘を指揮する力はない。しかし、大尉は、3人のうちのジャンボム(チェ・スンヒョン)に中隊長を無理やりに任命する。物語は、ジャンボムと不良グループのリーダーの対立を軸に進められていく。やがて、北朝鮮軍の精鋭部隊が浦項の女学校の攻撃を開始する。71人はこれに立ち向かうが。

★戦争映画は、スティーブン・スピルバーグが、戦闘シーンの映像を、『プライベイト・ライアン』(1998年)で一変させてしまった。誰もがそのリアルさに息をのんだ。『戦火の中へ』の先頭シーンはそれ以上だった。凄絶である。童顔の少年が次々と銃弾に倒れていく場面に、女性客の中には涙をぬぐう人もいた。主演のチェ・スンヒョンがいい。学生帽を目深に被って、一点を凝視する、その澄んだ瞳は、NHKのドラマ『大地の子』に主演した上川隆也の目とそっくりだった。

★この映画が韓国で大ヒットしたのも記録したのも頷(うなず)ける。しかし、このような映画は北朝鮮との融和を軸としていた前政権のもとだったら、果たして作られていただろうか。なぜこの時期にこのような映画が作られたのだろか、と見終わったあと考えたのは、ぼくだけだっただろうか。

2011年3月5日 月藻照之進


 

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