第89回のエッセイ「賃金窃盗(Wage Theft)」規制を進める世界の動向」では、オーストラリアとニュージーランドが「賃金不払い」を規制するために従来とは異なり、違法な使用者の不払いを「刑事罰」で厳しく規制することを紹介しました。今回は、「賃金不払い」が大きな社会問題となっている韓国でその解決に向かって法的規制を強める動きを紹介したいと思います。
既に、尹錫悦政権の時代に与野党が一致して賃金不払い問題の解決が課題になり、 2024年、「常習賃金不払根絶法」が国会を通過し、2025年10月23日から施行されることになっています。6月の大統領選挙でも与野党候補が共通して賃金不払い問題を取り上げましたが、当選した李在明大統領は、就任早々、公約した広範囲にわたる労働政策の中で、賃金不払い対策を最優先課題に挙げました。
今回は、韓国における賃金不払い問題の実情と、それに対する2025年10月あら至高される法規制、さらに新政権が目指す「賃金不払い根絶包括政策」について紹介し、日本への示唆を考えてみたいと思います。
この問題を取り上げた二大公営放送(KBSとMBC)が関連の調査報道をしていましたので、その動画を紹介しています。この動画は韓国語ですが、日本語字幕を利用することができます。
ただ、当初は、1回のエッセイで終わる積もりでしたが、調べている中で情報量がかなり多くなりましたので、2回(上・下)に分けることにしました。今回(上)では、法規制の背景のとして、韓国の「賃金不払い」問題の深刻な状況を調べてみました。
※ なお、韓国では、「賃金不払い」に相当する用語は「임금체불」です。これは漢字語で直訳すれば「賃金滞拂」です。辞書や翻訳ソフトでは「賃金未払い」と訳されることが多いですが、日本でも使われる「賃金不払い」を訳語として採用しました。
2025年9月10日 swakita
「賃金不払」が重大問題化する韓国
世界の中で突出する韓国の賃金不払
韓国では、2024年の賃金不払い額が2兆ウォンを超え、過去10年間で15兆5千億ウォン、被害労働者は約29万人に達しています。そして、70人に1人が賃金を受け取れずに職場を去るか、低賃金で働き続けるしかない状況があると指摘されるほどです。とくに、不払いの71.3%が労働者が30人未満の事業場で発生しており、不払いが小規模事業所に集中していることが特徴です。この状況は最近まで継続しており、とくに今年にかけて2023年から2024年にかけて急増し、2025年になってさらに増加しています。次のグラフは、雇用労働部が発表した資料(関係部署合同「賃金不払い根絶対策」2025年9月2日)によるものです。
韓国における賃金不払いの状況
脆弱な労働者の生存を脅かす「賃金不払」問題
2023年8月25日の韓国の公営放送局(KBS)が「追跡60分:賃金不払い残酷史-給料を盗まれた人々」と題された番組を放映しました。賃金不払いの現状と、それに苦しむ様々な立場の労働者たちの実態、そして社会が抱える深刻な問題点を提示しました。
〈建設不況と元請・下請間の工事費紛争〉 建設現場の鉄筋コンクリート工事下請業者KSさんは、ソウル首都圏の21階マンション建設に従事して、最後の1階を残す段階で、元請業者が工期内の完成不能を理由に工事中断を求められました。その結果、労働者にも賃金が支払われず、彼を慕っていたチーム員は皆去り、Kさんは一人で日雇労働者として働いています。2023年6月に焼身を試みた掘削機技士KDさんは、当時、5ヶ月間もの不払い賃金が約3,000万ウォンに達して、約1ヶ月間、野宿での集会や14日間の断食を行いました。結局、KDさんが焼身未遂という極端な行動に出て、ようやく不払い賃金を受け取ることができました。
〈フィットネスジムのトレーナー〉 20以上の支店があるジムが突然閉店し、「먹튀(モクティ)」(持ち逃げ、食い逃げ)騒動が起きました。数百人の会員が被害を受け、閉店前から賃金や退職金を受け取っていなかったトレーナーたちも被害に遭いました。あるトレーナーは不払い賃金が約830万ウォン、退職金を含めると2,500万~2,800万ウォンに達すると述べています。彼らは「毎日朝8時から夜11時まで苦労して稼いだのに、お金が入ってこない」と訴えています。
番組では、他にも、賃金不払いの数多い事例を紹介しました。有名なキムチ工場に勤務している高齢労働者・IOさんは、2022年2月からは10ヶ月間、給与が支払われず、同僚には2200万~5000万ウォン不払いの労働者がいます。そして、韓国でも有名大手企業であったウィニア電子の現・元社員たちは、2022年9月に賃金の50%を支払い、10月~12月は無給、2023年1月~2月も50%しか支払っていません。会社は業績が悪化し、大有ウィニアグループに買収されましたが、経営悪化を理由に賃金・退職金の不払いが続いています。
2024年2月6日夜9時にMBCで放送されたPD手帳「消えた給料1兆7,845億ウォン」は、(1)建設現場の下請け業者労働者たち、(2)Dグループタクシー運転手、(3)特性化専門大学の教授たち、(4)大宇ウィニアグループ(ウィニア電子)の事例を取り上げました。(1)(4)は、前記のKBS番組とも共通する賃金不払い事例ですが、(2)は、賃金不払いに抗議して自ら命を絶ったPYさんの悲劇を取り上げました。PYさんは、約10年間、タクシー運転手として勤務していましたが、Dグループは、労働契約書上の基本労働時間(所定労働時間)を実態よりも大幅に短く設定する賃金体系を設けていました。PYさんの2019年の最終労働契約書では基本労働時間が「3時間30分」とされて、これに基づいて最低賃金で月給が計算されていました。PYさんの実際の勤務日誌によると、2023年1月には1日平均「6時間53分」働いていましたので、もし「6時間40分」を基準に月給を換算すれば、180万ウォン以上になるはずが、PYさんは約100万ウォンしか受け取っていませんでした。この差額約80万ウォンが賃金不払いだったのです。PYさんは、この改善を求めて労働庁に訴えるなど争いましたが、改善されず、PYさんは抗議開始から227日目の2023年9月26日、自ら焼身を試み、10日後に死亡しました。遺書には「生きたい」「この身を燃やして世の中が良くなればそれでいい」と書かれていました。
(3)は、首都圏にある「特性化大学」の賃金不払い事例です。同大学は、公務員試験合格をめざす学生を集めるために設立された私立大学で、設立者の「講義動画」で莫大な収益を上げたことで知られていました。2010年代後半から、大学は、財政悪化を理由に、教員たちを圧迫するようになり、停職や解雇など懲戒処分を繰り返しました。裁判で勝訴して復職した教授に対して意図的に賃金不払いを続けたのです。しかし、紛争の中で、設立者は自分の講義動画を自身が設立した別会社を通じて大学に転売し、100億ウォンを超える収益を上げており、「財政悪化」が口実に過ぎず、不払いの根拠と言えないことが判明しています。
移住労働者(外国人労働者)への賃金不払いの実態と類型
韓国で賃金不払いは弱い立場の労働者に集中していますが、とくに目立つのが「移住労働者」と呼ばれる外国人労働者です。2023年に公刊された国家人権委員会「移住労働者賃金不払い被害の実態・救済のための委託研究」報告書は、賃金不払いが多い移住労働者を対象に詳細な調査を行い、それに基づく改善のための政策提案をしています。以下、この報告書の内容を要約して紹介します。
まず、雇用労働部の統計分析によると、2022年までの5年間で全体の賃金不払い申告事件は減少していましたが、それにもかかわらず、移住労働者の賃金不払い被害は、コロナ禍時期に一時的に数字では減少したものの、被害がより深刻化していることが明らかになりました。移住労働者の1人当たりの平均賃金不払い額は増加傾向にあります(2018年の400万ウォンから2022年には440万ウォン)。
韓国政府が採用している外国人労働についての「雇用許可制」の下では、移住労働者は産業的に脆弱な30人未満の小規模零細事業場に配置されることが多く、これが賃金不払い発生の可能性を高めています。とくに、未登録移住労働者は、他の在留資格労働者よりも賃金不払い被害を経験しており、農畜産業、漁業、建設業で賃金不払い経験の割合が高くなっていました。
賃金不払いの全体的な状況と認識
賃金不払いの類型
移住労働者の90%が賃金不払い問題は深刻であると回答しており(「深刻な方だ」40.6%、「非常に深刻だ」49.3%)、「全く深刻ではない」という回答は一件もありませんでした。賃金不払いを経験した移住労働者の92.9%が経済的困難を、87.1%が精神的苦痛を訴えており、特に経済的困難の方がより苦しいと感じています。
主な賃金不払い類型としては、①退職金未払い(最も多く発生しており、特に帰国が迫った労働者の時間的制約を悪用し、最後の数ヶ月の賃金不払いや退職金差額が不払いが多い)、②各種手当不払い(休業加算手当、年次手当、週休手当、延長手当、休業手当など、法的に支給されるべき各種手当が支払われない事例)、③最低賃金違反(特に農畜産業や漁業の移住労働者によく見られ、最低賃金未満の賃金や、前年度の最低賃金が適用される事例)、④不当な費用控除(労働者の同意なく、宿舎費、社会保険料、電気代などの各種費用が一方的に賃金から控除)、⑤勤労契約違反・一方的な変更、⑥未登録労働者への賃金不払いと脅迫、⑦証拠資料の不足(勤怠記録や賃金明細書が作成されない例、事業主が証拠提出に非協力的で賃金不払いの証明が困難な事例)が挙げられています。
賃金不払いの主な種類と原因:
多くの移住労働者(78.6%)は、賃金不払いの理由が会社の経済的状況以外にあると考えています。具体的な理由としては、「事業主が法違反を認識しながら賃金不払いを行っている」(37.6%)、「自分が外国人労働者であるため」(35.6%)、「常習的な賃金不払い事業場であるため」(34.9%)が挙げられています。相談者や活動家の回答でも、同様に常習的な賃金不払い事業場であること(42.5%)、外国人労働者であること(42.5%)、事業主が法違反を認識していること(41.1%)が主な理由として挙げられています。(以下のグラフ参照)。未登録移住労働者は、他の滞在資格者に比べて賃金不払いの被害が大きい傾向にあり、取り締まりや脅迫により救済手続きへのアクセスが困難で、勤務記録がないために立証が難しいケースも多くなっています。
賃金不払いの本当の理由
一般的に、賃金不払いは会社の経営難が原因だと思われがちです。しかし、データはその通説を覆します。
会社が賃金を払わない理由
小括
韓国で賃金不払いが多いことは以前から指摘されていました。既にニッセイ基礎研究所の金明中さんが、2016年に「なぜ韓国では最低賃金を守らない企業が多いのか?―韓国の最低賃金の未満率は11.5%で日本の約6倍」という報告をされていました。最近では、中央日報(2025年7月3日)が、「韓国でひときわ多い賃金未払い、今年も5カ月で9482億ウォン」で、単純に景気不況のせいにはしにくいという指摘を紹介し、「日本は経済活動人口が6957万人で韓国の2倍を超えるが、年間賃金未払い額は1000億ウォン水準にすぎない。韓国の未払い規模は2024年基準で3822億ウォンの米国よりも大きい」ことを指摘しています。そして、日本との比較で「日本は賃金問題を民事訴訟で解決するケースが多く、社会的にも未払いに対する認識が厳格」と指摘し、韓国との違いを強調しています。
要するに、「賃金不払い」問題が韓国で深刻化する要因は多様で広範にわたっていますが、共通して指摘されるのは、不況などの経済的要因や理由だけでなく、賃金不払いについて「事業主の責任回避をしても平気なマインド」、「労働時間などを厳密に行わない労務管理の不備」、さらに驚くべきことは監督官庁に呼び出されても「出頭拒否をする事業主が少なくない」ことが指摘されていることです。しかし、日本とも共通するのは、企業間格差を悪用した元請・下請関係が多くの産業部門に広がり、末端の業者や労働者が賃金不払いの被害に遭っていることです。
また、従来の制度に賃金不払いを予防・改善できない原因といえる欠陥が不払い頻発の非経済的要因になっていることです。とくに勤労基準法の「死角地帯」とよばれる、同法が適用されい「5人未満事業場」が依然として残されていることです。とくに、移住労働者が多い農漁業の事業場が適用除外されることになり、産災保険(日本の労災保険に相当)が適用除外となるので、不払いに対する「仮払い金」制度の利用も妨げている問題が指摘されています。また、刑事処罰の軽さと不確実性、不払い企業・使用者に有利な制度」「悪用される反意思不罰罪」などのが賃金不払いを助長しているという指摘が共通しています。
次回(下)では、これらの賃金不払いの要因を克服するために政府や国会がどのような政策や法律を導入しようとしているのかを詳しく調べたいと思います。 (つづく)