毎日新聞2016年7月6日 東京夕刊
http://mainichi.jp/articles/20160706/dde/012/010/002000c
有効求人倍率改善の主因は労働力人口減? 増え続ける非正規の割合
「数字はうそをつかない」と言われる。安倍晋三首相は最近、雇用関連の統計を挙げ、アベノミクスの「成果が出てきた」と繰り返し訴える。アベノミクスの評価が争点の一つとなる参院選を前に、数字がどれほど雇用改善の実態を示しているのか、現場の声を聞きながら考えてみた。【小林祥晃】
「1人の求職者に対して1人分の職があるという『有効求人倍率1倍』を、史上初めて全都道府県で実現した」「雇用を3年で110万人増やした」「正社員は26万人増えた」
安倍晋三首相は参院選公示直前の19、21日の与野党9党首による討論会で次々に統計数字を示し、雇用環境の改善の証しとしてアピールした。
数字はすべて事実だ。しかし、BNPパリバ証券チーフエコノミストの河野龍太郎さんは「雇用者数は増えましたが、それは実体経済が改善したということではありません」と指摘する。
数字がアベノミクスの成果を示す具体例になるのか、一つ一つ検証してみよう。
有効求人倍率の推移
まずは有効求人倍率。仕事を探す人(求職者)1人に対し何件の求人があるかを示す指数だ。7月1日に発表された今年5月の全国平均は1・36倍。2008年のリーマン・ショック後に落ち込んだ有効求人倍率は、09年以降回復しており、現在はバブル崩壊が始まった1991年の9、10月に並ぶ高水準だ。
ただ、「全都道府県で1倍を実現」は説明を要する。有効求人倍率は、求人票を受理した県を基準にする「受理地別」が一般的だが、安倍首相が言っているのは、実際の勤務地を基準にする「就業地別」で、05年から集計を始めた新しい物差し。今年4月に1倍を超えたのは就業地別の方で、受理地別では沖縄が0・94倍、鹿児島が0・97倍、最新の5月統計でも沖縄は0・98倍で「全都道府県で1倍」はまだ実現していない。都市部の本社が地方の支社の求人を出した時、受理地別なら都市部の求人に計上されるが、就業地別なら支社のある地方に計上される。つまり、「47都道府県すべてで1倍」は、統計の取り方次第で変わる数字なのだ。
また、有効求人倍率からは、働きたい職種に求人がないという「ミスマッチ」の問題は見えない。例えば、今年1月に初めて倍率1倍(受理地別、以下同じ)を超えた青森県。4月は1・06倍だが、職種別に見ると、人気の事務職は約0・26倍とかなり低い。一方、人手不足の介護職は1・78倍、建設関係の現業職も2倍近くあり、これらが全体を押し上げている。
厚生労働省青森労働局の担当者は「福祉や介護、建設業では採用側が有資格者を求めるケースも多いので、求人数が多くても、皆が採用されるわけではありません。求人倍率は改善していますが、求職者の職業訓練や求人のさらなる確保などの対策は、まだまだ必要です」と訴える。
有効求人倍率が上がるもう一つの理由に、少子高齢化で働く人が減っている事情もある。昨年10月の国勢調査の速報値では、15歳以上の労働力人口は6075万人で、5年前に比べ295万人減った。「有効求人倍率は求人数を求職者で割って算出するので、分母にあたる求職者が減れば倍率が上がりやすくなる。当然の話です」(厚労省関係者)
さらに地方では、若者の都会への人口流出が拍車をかける。例えば、昨年9月にやはり史上初めて有効求人倍率が1倍を超えた高知県。厚労省高知労働局の集計では、求職者は09年度の1万9000人から昨年度は1万4400人と4000人以上の減少。また、14年の他県への転出者は、転入者より2179人多く、年齢別に見ると、20〜24歳がその半数以上を占める。
高知県高等学校教職員組合書記長の米満敏孝さんは「求人は職種が限られていて、事務職などは希望してもほとんどないのが現実。結果的に高校生は3割前後が県外で就職する」と話す。安倍首相の言う「雇用の改善」には、求職者の母数が減る中、若者が都会へ流出し、有効求人倍率はますます上がる、という皮肉な構造が見え隠れする。
では「正社員26万人増」はどうか。総務省の労働力調査によると昨年の正社員数は8年ぶりに増加に転じ、確かに前年比26万人増の3313万人だった。しかし、非正規も増えており、昨年は同18万人増の1980万人。正社員の方が増えていると反論されるかもしれないが、非正規は13年(同93万人増)と14年(同56万人増)の伸びが著しく、昨年はその傾向が少し鈍化しただけだ。非正規の割合は10年以降、縮小することなく、現在は4割近い。06年からの10年間を見れば、非正規は約300万人増え、正社員は約100万人減っている。
現場にも浮かれムードはない。高知労働局の担当者は「正社員の水準はまだ低いのです……」と申し訳なさそうに語る。高知の5月の有効求人倍率は1・11倍。しかし、これはパートを含めた数字で、正社員に限ると0・5倍。全国平均の1・36倍も、正社員に限ると0・87倍。1倍を超えているのは東京、富山、福井、愛知など8都県だけだ。
雇用と貧困の問題に詳しい橘木俊詔・京都女子大客員教授は「非正規労働者の割合が増え続ける傾向に変わりはありません。『雇用環境が改善した』と手放しで喜べる状況ではないと考えています」。
正社員の有効求人倍率が1倍を超えている8都県のうちの一つ、広島県では現状はどうなのか。「派遣切り」で住まいを失った非正規労働者らに、一時宿泊施設を提供している「反貧困ネットワーク広島」に尋ねた。説明によると、広島市内で準備している宿泊施設の10室はここ数年、常に満室で、今も空室待ちが続いている。昨年は約150人が利用し30〜50代の中年男性が多かった。ほとんどが正社員の職を望んでいるが「体を酷使する非正規の仕事しかない。この1年で正社員になれたのは1人だけでした」(スタッフ)と厳しい状況を訴える。
「雇用が110万人増えた」のはなぜか。河野さんは「アベノミクスが始まった12年は、人口の多い『団塊の世代』が65歳を迎え、職場から引退し始めた時期。人手不足で労働者の採用が難しい中、その穴を補充したのは高齢者や主婦などの短時間労働者だったと見ています」と話す。退職した正社員1人の仕事を、非正規の短時間労働者が分け合っているというのだ。
事実、<1人あたりの労働時間×就業者数>で算出する総労働時間は14、15年とほとんど増えていないという。つまり、仕事量は変わらず、労働者だけ増えていることになる。「国内総生産(GDP)はこの2年間全く増えず、実体経済はほとんど成長しませんでしたが、その事実とも合致します」と河野さん。
数字はうそはつかないが、全体像を見誤ることがある。数字だけでなく、実態もちゃんと見たほうがよさそうだ。