デービッド・アトキンソンさん「最低賃金引き上げ「よくある誤解」をぶった斬る」 (10/9)

最低賃金引き上げ「よくある誤解」をぶった斬る
アトキンソン氏「徹底的にエビデンスを見よ」
https://toyokeizai.net/articles/-/307134
デービッド・アトキンソン : 小西美術工藝社社長

東洋経済オンライン 2019年10月09日

〔写真〕「最低賃金引き上げ」にまつわる数々の「誤解」を、一気に解きほぐします(撮影:梅谷秀司)

オックスフォード大学で日本学を専攻、ゴールドマン・サックスで日本経済の「伝説のアナリスト」として名をはせたデービッド・アトキンソン氏。

退職後も日本経済の研究を続け、日本を救う数々の提言を行ってきた彼が、ついにたどり着いた日本の生存戦略をまとめた『日本人の勝算』が刊行されて9カ月。アトキンソン氏の「最低賃金を引き上げることで生産性を高めるべき」という主張には、多くの賛同の声が上がっている。
一方、この主張に疑問を呈する声もある。そういった疑問に、一気に答えてもらった。

最低賃金を引き上げるべき「3つの理由」

このところ、最低賃金引き上げに関する議論がヒートアップしています。私の記事や著書へのコメント、SNSなどでさまざまな質問や指摘をいただき、考えさせられることが増えてきました。今回はそれらの質問に対して、できるだけ多くのエビデンスをもって、お答えしたいと思います。

〔『日本人の勝算 人口減少×高齢化×資本主義』は8万部のベストセラーとなっている(書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします)〕

私は日本経済を再生させるには、中小企業を合併させるなどして規模を拡大させ、輸出を促進し、労働者と経営者のスキルアップを徹底して、生産性を向上させるしか方法はないと思っています。そして、そのためには最低賃金を継続的に引き上げる必要があると、かねて提言しています。

なぜ、この政策を実施するべきか。この点について3点、強調しておきたいポイントがあります。

1つ目は、自然災害との関係です。日本の国土面積は世界の0.28%であり、人口は1.9%と、世界全体からするとほんのわずかを占めているにすぎません。しかし、2014年の『防災白書』によると、2003年から2013年の間に発生したマグニチュード6以上の地震のうち、実に18.5%が日本国内で発生したそうです。また、1984年から2013年の活火山の7%が日本に存在するともあります。

つまり、日本という国は、地震や火山に絡んだ極めて特殊なリスクを抱えている国なので、いざという時のために、生産性を高めて国の財政を諸外国より健全な状況にしておかなくてはならないのです。このような観点から、日本にとっての生産性の向上は、国の死活問題だと私は真剣に考えています。

2つ目。今も述べたとおり、生産性の向上は国の死活問題なので、できるだけエビデンスに基づく議論を展開するべきです。感覚的な話、抽象的な話など、統計やデータを無視した議論は意味がありませんし、その類の議論をベースに物事を決めるのは極めて危険だと思います。

3つ目。日本の場合、極めて急激なペースで人口が大きく減少するという、他国にはない事情があることを、海外との比較の中でしっかりと理解しておく必要があります。

アトキンソン氏が「10の疑問」に答える
では、疑問へのお答えに移りましょう。

疑問1:最低賃金を上げると、失業が増えるのではないですか?

この件に関しては、ノーベル経済学賞を受賞したポール・クルーグマン教授が、以下のようにコメントしています。

There’s just no evidence that raising the minimum wage costs jobs, at least when the starting point is as low as it is in modern America.(少なくとも現代のアメリカのように最低賃金が低い場合、それを上げることが雇用に悪影響を及ぼすという証拠は存在しない)

また、今年の7月8日には、以下のようなコメントも残しています。

There is a diehard faction of economists who refuse to accept the overwhelming empirical evidence for very small employment effects of minimum wages.(最低賃金が雇用に及ぼす影響が極めて小さいという圧倒的な証拠を受け入れることを拒否する、経済学者の頑固な一派が存在する)

つまり、最低賃金が低ければ低いほど、引き上げによる雇用への影響は少なく、この件を立証する圧倒的な量のデータが存在するとおっしゃっているのです。

最低賃金引き上げの影響を否定的に捉える論文もあるにはあります。しかし、各国で行われた約20年間の検証の結果、データがそろってきたこともあり、雇用への影響はあっても、その影響は以前考えられていたより、だいぶ小さいと考えられるようになってきています。170カ国以上が実施している最低賃金引き上げに関する分析は、ドイツ、フランス、アメリカ、中国、韓国などのほか、途上国も含むさまざまな国で行われています。

また、最低賃金引き上げは現在雇用されている人には影響はなく、将来の雇用にのみ影響を及ぼすなど、次第に論調が変化する傾向も認められます。

日本はアメリカ同様に、最低賃金が極めて低く設定されていますので、クルーグマン教授のコメントを真摯に受け止めるべきでしょう。

また、人口が増加している国にとっては、将来の雇用への影響を懸念することも重要ですが、日本では今後人口が減少するので、事情が違うことも忘れるべきではありません。

疑問2:イギリスで最低賃金引き上げが成功したというデータは、各国の最新の研究で否定されているのでは?

この指摘をしてきたコメントには、「ここ1〜2年の研究では抽出方法の改良が進み、イギリスでの最低賃金引き上げの影響が肯定的であるという説は否定され、アメリカ、スペイン、フランス、ドイツの直近の経済学者の研究では、失業の増加をもたらすと確認された。韓国は研究の結果を待つまでもない」とあります。

これが本当なら一大事ですので、一生懸命、学会に発表された論文を探しましたが、このような結論を展開している論文を見つけることはできませんでした。いったい、どの論文をご覧になられたのか、教えていただきたいものです。少なくとも、確認できる論文の中で特殊な例であることは間違いありません。

イギリスはLow Pay Commission(低賃金委員会)が徹底的な分析に基づいて、政府に対して提言する仕組みを設けています。この低賃金委員会が2019年4月2日に発表した286ページにも及ぶ報告書には、以下のように記載されています。

Rather than destroy jobs, as was originally predicted, we now have record employment rates.(当初は雇用破壊が危惧されていたが、就業率は過去最高を記録している)
The overwhelming weight of evidence tells us that the minimum wage has achieved its aims of raising pay for the lowest paid without harming their job prospects.(最低賃金は、低所得者の雇用を破壊することなく彼らの賃金を高めるという目的を達成した。これには圧倒的な証拠が存在する)

直近のデータでは、イギリスの労働参加率は76.1%という記録を更新して、失業率も3.9%と、1974年以降の最低水準にあります。

最低賃金を引き上げても失業率が上がらないことは、このデータで証明されています。ですから失業率が上がると主張するならば、このイギリスの事実を否定することになりますが、厳然たる事実を否定することなど可能なのでしょうか。

むしろ「イギリスの特殊性」から学ぶべき

疑問3:イギリスのデータは特殊ではないのですか?

この指摘には一理あります。というのも、科学的な根拠に基づいて最低賃金の引き上げを実施していることが、イギリスの特徴の1つと言われているからです。

イギリス政府は低賃金委員会に対して、雇用への影響のない、ぎりぎりの線で最低賃金の引き上げを提言する使命を与えています。雇用への影響が出ないのは、偶然ではないのです。それに比べて、日本の最低賃金を決める中央最低賃金審議会の委員の専門性は相対的に低いと、日本総研が報告しています。

ここでの教訓は、「ぎりぎりの線」を狙えば、雇用に影響を与えることなく賃金を高められるということです。イギリスでできたことが日本でできないとは思えません。

疑問4:若い人に大きな悪影響が出るのでは?

イギリスでは、若い人に影響が出ないように、若い人のための最低賃金を別に設定しています。場合によっては日本でも検討に値するでしょう。

イギリスの現行の最低賃金は、25歳以上では8.21ポンドですが、21歳から24歳は7.7ポンド、18歳から20歳は6.15ポンド、18歳未満は4.35ポンドです。若い人が求職に困らないように工夫していると言えます。

疑問5:最低賃金を引き上げると格差が拡大するのでは?

真逆です。実は、最低賃金引き上げの最大の効果は、格差を縮小させることです。

イギリスでは、最低賃金を導入した1999年には、最下層の人たちの所得は中央値に対して47.6%でしたが、2020年までに中央値に対して60%まで引き上げる計画を実行しています。

イギリスは1978年から1996年までの間、格差が一貫して拡大しましたが、最低賃金の引き上げによって、その間に開いた格差の半分が解消されました。アメリカの格差拡大要因の大半は、最低賃金の引き上げ低迷によるという分析もあります。

格差社会とは、最下位層と最上位層の所得格差が大きい社会のことですので、所得の中央値に対する最低賃金の比率が低くなればなるほど、この開きが拡大します。日本でワーキングプアの比率が高いのは、これが低いからにほかなりません。

最低賃金を引き上げて格差が拡大する唯一のケースは、失業者が大量に増えて、再就職ができないケースですが、そもそもそうならないように慎重に検証したうえで引き上げるべきなので、そういう事態は起こりえないでしょう。というより、起こさないようにすればいいのです。

「生産性を高めると格差が広がる」は大間違い

疑問6:アメリカやイギリスのように、生産性を高めると貧困率も高くなるのでは?

このご指摘には、いくつかの事実誤認が含まれています。

2018年のデータを使うと、大手先進国23カ国の生産性と貧困率の相関係数は−0.529です。生産性が高くなればなるほど、貧困率は低くなります。生産性と、格差を測るジニ係数の相関係数は−0.513です。生産性が高くなればなるほど格差が縮まるのは明らかです。

確かに、アメリカは生産性が高いにもかかわらず格差が大きく、貧困率が16.8%と大手先進国の中で高いのは事実です。ただし、その理由は、アメリカの最低賃金が所得の中央値に対して著しく低いからです。

つまり、生産性の高いアメリカで貧困率も高いのは、アメリカが特殊な国だからです。このように1つの特殊な例を取り出し、それが特殊な例かどうかも確認せずに一般化して議論をするのは、エビデンスの曲解につながるので注意が必要です。

また、イギリスは生産性が高くはありませんし、貧困率も日本の16.1%より低い10.9%です。ご指摘には当たらないと言わざるをえません。

生産性が高いほど貧困率が高くなるというエビデンスはありません。貧困率を下げたいなら、逆に、最低賃金を引き上げるべきなのです。

「一部の事情」を一般化するのは危険

疑問7:中小企業の生産性が低いのは、大企業に搾取されているからなのでは?

こういう指摘がされるのは、そういう影響が考えられる業種があるからではないかと察します。建設業や製造業でしょうか。

確かに調べてみると、大企業は中小企業が多数存在するのをいいことに、価格競争をさせて買いたたき、中小企業が創出した付加価値を自分のものとして計上している形跡が確認できます。それを示すエビデンスは存在します。

しかし、360万社ある日本企業の中で、すべての中小企業が大企業の下請けとなっている事実はありません。飲食業、宿泊業、美容室なども生産性が低い業種ですが、これらの業種は大手企業に搾取されているわけではありません。

大手企業に搾取され生産性が低くなってしまっている事例があるといっても、そういう企業が全体のどれほどの割合を占めているのか、キチンと把握しておかなくては議論になりません。

私は、約2割でないかと試算しておりますが、十分な統計が存在しないので正確な推計はできません。いずれにせよ、100%ではないことは明らかです。

疑問8:最低賃金を引き上げると、地方の企業は倒産するかリストラを進めるのでは?

最低賃金を引き上げると、大半の中小企業は余裕がないので、廃業するかリストラして社員数を減らすしかなくなるというご指摘です。

この主張を立証するためには、膨大な量のデータ分析が必要になります。地方といっても経済状況はさまざまですし、中小企業も数が多い分だけ、実態は多様です。

「地方の大半の中小企業は最低賃金に耐えうるだけの余裕がない」というなら、そのエビデンスを出していただきたいです。私が実際のデータを分析するかぎり、この主張には疑問を覚えます。

例えば、2018年の最低賃金の水準は、小規模事業者の付加価値の52.6%と推計できます。県別で見ると、60%を超えているのは8県で、70%を超えている都道府県はありません。これは倒産が相次ぐと断言できる水準ではないと分析しています。

海外では、最低賃金の水準や労働分配率が日本より高いにもかかわらず、最低賃金を引き上げて倒産、廃業、解雇が増加したというような事実は確認されていません。なぜ他の国でできていることが、日本ではできないのか、科学的な根拠をベースにして説明をしてほしいといつも思います。

「数字ではなく実態に注目するべきだ」という声をいただいたこともあります。しかし、実態を集めたものが統計なのですから、数字より実態と言われても、個人として把握できる情報量に限りがある以上、その「実態」は特殊な事例を一般化する危険性を伴います。

これからの日本では社会保障の負担が激増し、危機的な状況を迎えるのです。このような状況が目の前にある以上、「思う」「思わない」「余裕がない」などと感覚に頼った主張をするより、人口減少対策の代案を示すべきです。

「低スキル労働者が犠牲になる」の5つの問題点

質問9:低スキルの労働者が犠牲になるのでは?

生産性の低い企業で働いている人の多くは低スキルなので、最低賃金を引き上げて、その人がクビにされた場合、再就職ができないということをおっしゃる人がいるのですが、この指摘にはいくつか問題があります。ここでは、5つの視点から解説します。

視点1:そもそも最低賃金を引き上げると失業が増えるという仮説が前提とされていますが、この前提自体、多くの諸外国のエビデンスから判断すると、正しいのか大変怪しいと思います。

日本でも最低賃金をこの数年、毎年3%ずつ引き上げてきています。しかし、倒産件数は減少し、求人倍率は上がっています。このような事実が存在するにもかかわらず、なぜ「最低賃金を引き上げると、失業率が上がる」と主張されるのか、まったくもって理解不能です。

小規模事業者の付加価値に対する最低賃金の比率が危機的な水準に近づいているという分析結果も存在しないので、低スキル労働者が犠牲となるという指摘の根拠は、謎としか言いようがありません。

視点2:「最低賃金で働いている人のスキルが低い」という前提自体にも疑問が残ります。

イギリスとの比較では、日本人労働者の2018年の生産性(購買力調整済み)はイギリスの96.7%ですが、最低賃金(同)は69.3%です。日本人はイギリス人のスキルの7割しかないのでしょうか。

日本でも、最低賃金で働いている人の中で、女性が占める割合が高いです。最低賃金で働く人はスキルが低いということは、女性のスキルが低いということになります。ただの偏見ではないでしょうか。

とくに、出産のため1度仕事を辞めている人は、仕事に戻ってから、収入のレベルが大きく低下する傾向にあります。出産する前に比べて給料が減っているから、スキルが大きく低下しているというのは、とんでもない論理の飛躍です。

視点3:先進国が最低賃金を引き上げている理由の1つに、ある不公正の是正があります。それは、「企業は労働者のスキルと関係なく、女性、高齢者、若い人などの交渉力の弱さを悪用して、生産性に比べて不適切に低い給料を払っている」ということです。

各国政府は、格差社会の是正と、個人消費の活性化、そしてこの不公正を是正するために、最低賃金を引き上げています。

視点4:「中小企業は苦しいから、最低賃金の引き上げに耐えられない」「対応のしようがない」「倒産するしかない」という極論を展開するのであれば、中小企業の実態を正しく分析したうえで、労働者が搾取されているという事実が存在しないことを証明する必要があります。少なくとも私はそんな分析を見たことはありませんし、私自身の分析でもそんな実態は存在しません。

「中小企業の経営は大変。最低賃金なんか上げたら、倒産しちゃいますよ」。日本に限らず海外でも、実際に給料を払うことになる経営者たちは口をそろえてこう主張しますし、御用学者たちも同様の発言をします。

しかし、海外の例でも、毎年10%以下の最低賃金引き上げによって倒産が増加したという分析結果が出たことはありません。もちろん統計的にそんなことが確認されたこともありません。

視点5:社会保障の負担が増える一方、担い手が激減する日本では、根拠なき感情論ではなく、徹底した分析に基づく科学的根拠をそろえたうえでの議論を展開することを強くお勧めしたいと思います。

最低賃金を段階的に引き上げていくと、もちろん中小企業は大変です。しかし、生産性が上がらないと、社会保障負担に国が耐えられないという現実の危機を乗り越えるための代案を示していただかないといけません。

2年間で30%も引き上げた韓国と同一視はできない

疑問10:韓国は最低賃金を上げて経済が崩壊しています。日本も、韓国のようになってしまうのではないですか?

韓国は、最低賃金を2年間で30%も引き上げてきました。アメリカのある分析によると、最低賃金を1年間で12%以上引き上げると、短期的に失業率が上がるおそれがあるとしています。日本ではもっと緩やかな引き上げが議論されていますので、比較すること自体に意味がないと感じます。

最低賃金の引き上げの効果を測るには、収入増加と失業率のバランスを天秤にかけるべきです。残業の調整なども含めて、最低賃金が上がることによるネットの所得増加によるプラスと、失業率が高まることによるマイナスを両方見るべきです。失業率だけに注目する議論は視野が狭いと言わざるをえません。

韓国の失業率は、過去20年間の平均で3.7%でした。確かに2019年の1月には4.4%まで大きく上がりましたが、そのあとは落ち着き、直近の8月は2002年に更新された最低記録の3%に近い3.1%まで下がっています。倒産件数も落ち着いています。

若い人の失業率が高く、長期的な影響はまだ見えず、失業率が低下しているデータポイントが少ないため、韓国の最低賃金の直近の引き上げがどのくらいの失業につながったかは、専門家として判断するには時期尚早です。トレンドを冷静に見守る必要があります。

韓国は2年間で最低賃金を30%も引き上げているにもかかわらず、まだ言われるほどの崩壊は現実になっていません。一方、日本では5%引き上げたら大変なことになるとあおられている。韓国に比べて、日本経済が極めて貧弱であるという指摘には、とうてい賛同できません。

東洋経済新報社

 

この記事を書いた人