今年驚いたことの一つは、10月26日に投票された韓国ソウル市長選挙で野党統一候補の朴元淳(パク・ウォンスン)さんが当選されたことです。彼には、以前、日本と韓国で2度お会いしていました。それで親しみと尊敬の念を込めて「朴さん」と呼ばせていただきます。
最初に会ったのは、2001年11月24日、龍谷大学で開かれた社会文化学会第4回全国大会でした。その全体シンポジウムで、朴さんは「韓国市民運動の特徴と方向性」について、私は「社会派株主運動と企業改革」について報告し、シンポのなかでもその前後でも意見を交わす機会がありました。
2度目は、朴さんに招待されて、2002年8月1日から3日にかけて、株主オンブズマンのメンバー8人(ほかに同伴者2名)とともに韓国の市民団体である参与連帯の経済民主化委員会を訪問したときです。参与連帯の名は、2000年韓国総選挙の「落選運動」のニュースで日本でも知られていました。朴さんは、私たちが訪問した当時、参与連帯の事務所長を降り、市民社会団体連帯会議(NGO連合)の常任運営委員長でした。
朴さんは、私たちが参与連帯と交流した場には来られなかったという事情もあって、8月2日の夜、私たちが宿泊していたロッテホテルにわざわざお見えになりした。そのとき、彼が「私は韓国でもっとも有名で、もっとも貧乏な弁護士です」と笑いながら言われたことが今でも記憶に残っています。自分は「落選運動」で一躍有名になったけれど、現在は弁護士としての仕事はしておらず、市民団体のわずかな専従手当しか収入がない、という意味です。
また、そのとき、後に日本で『韓国市民運動家のまなざし―日本社会の希望を求めて』(風土社、2003年)とタイトルで出版された本の韓国語版をサイン入りで恵贈いただきました。私は韓国語はわからりませんが、朴さんから2000年に3ヵ月日本にいて各地の市民団体をめぐったときの記録で、「日本の変わり者を訪ねて」という題の本だと聞きました。
いま、当時の日本語版の出版記念フォーラムの朴さんの講演記録を読むと、「3年前(2000年)、私が初めて日本に来たときは、知っている人もいないし、日本語も全くできませんでした。東京にいるときは通訳をお願いできましたが、地方ではそうも行かず、私自身が日本語を話さなければなりませんでした。一所懸命勉強して、最後には日本語で講演するほどになりました」。3ヵ月で日本語で講演できるまで日本語に習熟するとは驚きです。その後、私が2度会ったときは、昔から知っていたかのような日本語を話されていました。
朴さんは、その後も「美しい財団」というNPOを設立するなど、ずっと貧乏弁護士として、企業監視の市民運動の先頭に立ってきました。その人が若者層の強い支持を受けて市長選に圧勝したのですから、どこかのタレント上がりの金持ちの強権的弁護士市長とは大違いです。
朴さんは市長就任後は、公約通り非正規の市職員の正規化を進めているといいます。また従軍慰安婦問題では、過去の完全な精算と日本政府の補償を求める立場を表明しています。
お隣の国の首都のこととはいえ、朴元淳さんの市長としての仕事を、これから期待を込めて見守るとともに、応援していきたいと思います。