スコット・ノース(大阪大学人間科学研究科教授)
「36協定の交渉は、対等ではない」。24年間ほど前に、同志社大学の辻村一郎教授が教えってくれた。当時、私は、過労死問題を研究するため、大学院交換留学性として日本に来ていた。「労働者の代表の立場は弱い。経営側の相手は、目上の管理監督者だから。専務や常務、取締役など、ステータスの高い人物が企業の生産目標を達成するために必要な時間外労働を説明する。これに対して労働側はノーと言えない。これで過労死を生み出す労働環境が可能になる。」と先生がおっしゃった。
今回の「政労使」の合意案においては、時間外労働の計算基盤は、現行法の1日と1週間の代わりに、1ヶ月間と1年間になっている。別枠扱いの休日労働を含めれば、年間960時間の時間外労働が可能になる。月に100時間「未満」、数ヶ月にわたって月に80時間「以内」の残業が許される。言うまでもないが、このような長時間労働は労働者の心身を滅ぼす点で、過労死認定の労災基準を満たす。
合意案が法律になると、36協定の意味も変わってくる。現行の制度では、交渉とはいえない交渉だが、とにかく労働基準法に適合するように「事業所ごとに」36協定が結ばれている。しかし、「働き方改革実現会議」の検討結果を受けて、時間外労働の上限が設定されると、従来、多くの企業の特別条項付き36協定(業務の繁忙などを理由に特別な延長を認める協定)に盛り込まれていた「延長の上限」と大差のないかそれ以上の長時間残業が、法律で認められることになる。ある意味では企業単位の特別延長時間が「全国一律の法定時間」に一般化されるとも言いうる。
合意案によっても、36協定や特別条項付き36協定の締結の必要性がなくなるわけではない。合意案によって、上限が規制されて延長に歯止めがかかるかのような報道もあるが、その見方は甘い。現行制度では、特別条項付き36協定を結んでいる企業の平均延長時間は月77.5時間(2013年厚労省調べ)で、月100時間はもちろん80時間をも下回っているが、「月100時間未満」が可とされれば、たとえばこれまで上限を月70時間としていた企業は、80時間、90時間、さらには99時間に引き上げる可能性がある。
「働き方改革実会議」の議論について読んでいたら、かつて辻村先生がおっしゃっていたシーンが浮かび上がった。今回の合意案にいたるプロセスと各企業で行う36協定の交渉は似ている。批判する声、例えば過労死の遺家族を排除し、労働者の唯一の「代表」は、ノーと言えない連合の神津氏にした。肩書きの偉い管理監督者を演じたのは、安倍総理と閣僚のメンバー。そして、自分の手を汚さない財界の黒幕として経団連の榊原会長がいる。
「働き方改革実現会議」における時間外労働の交渉から「初めて上限規制が設けられた」ことが成果として報じられているが、「労働者代表」とされている連合は、加盟組合員数では、全国の労働者総数の1割程度しか代表していない。全国レベルでは「労働者の過半数を組織する労働組合」に当たらない。しかも、「事業所別」の合意ではなく、圧倒的に財界優位の政府内での一方的な交渉結果だったので、現在日本の本当の権力関係が露出。今回の芝居によってできた「政労使」の合意案が法律化されれば、労働者の生活と健康をも守ろうとする強い労組の事業所でも、労働者の自治権はさらに侵害される恐れが生じるではないだろうか。