退職後もタニタで稼ぐ 変わる働き方のいま さらば正社員~タニタの挑戦(1)
2020/4/5 2:00 (2020/4/7 2:00更新)日本経済新聞 電子版
「カーン、カーン、カーン」。築70年の米蔵を再活用したアトリエに金属音が響く。メタルアーティストの大塚武司(50)が金づちで鉄棒を叩(たた)く音だ。アセチレンバーナーで鉄を真っ赤に熱し、叩いて曲線を打ち出す。鉄が冷めて固くなったら、再び炎をかざす。「硬い鉄は思い通りにいかない。だけど、だから予想もしない表情が生まれる」と汗を拭う。
■アーティスト兼タニタ営業推進課
タニタで業務委託で働く「元社員」のアーティスト、大塚武司さん(埼玉県加須市のアトリエで)
東京芸術大学で鍛金を学んだ。金属工芸家で現在は文化庁長官を務める宮田亮平の研究室に属し、28歳まで師事した。その後デザイナーとして一般企業に就職。1度は遠のいた芸術家の道。だが、思いがけず再チャレンジの機会が巡ってきた。
タニタ営業戦略本部営業推進課――大塚はメタルアーティストとは別の肩書を持つ。2005年に正社員として転職した。18年末に辞表を出して退社したが、19年以降も業務委託契約を結び、タニタの名刺を持ち、働き続けている。
〔写真〕人気キャラクター「ミニオン」をモチーフにした体組成計。大塚が商品企画を担当し、2019年夏に発売した(c) Universal City Studios LLC.All Rights Reserved.
担当は商品企画。アニメーション映画の人気キャラクター「ミニオン」をモチーフにした体組成計などを昨夏手がけた。所属部署も担当業務も正社員時代と同じだ。ただ雇用関係は解消したので就業規則に縛られない。いつどこで働くのも自由。週3日本社に出向くが、任された業務をこなしていれば時間の使い方は自分次第だ。「仕事と収入を維持しながら会社に長時間拘束されない。好きなときに創作活動に打ち込める」と満面の笑顔を見せる。
■正社員だから「やらされ感」がまん延する
〔写真〕若いころに学んだ金属工芸の道に再び身を投じた
終身雇用と年功序列を基本とする正社員。企業活動を懸命に支え、戦後の経済成長に貢献した。ただかつて競争力の源泉であった正社員制度が逆に今、ひずみを生んでいる。
人一倍頑張っても収入が急増したり年配社員を超えて出世できたりしない。辞令1つで会社が命じるままに配置転換や地域間異動に応じる。やりたい仕事が組織内でできる保証はなく、子育て・介護など生活との両立が難しい。働く側にとっても魅力が薄れ、会社の中には組織にぶら下がる消極的な社員が増えた。
「さらば正社員」。どうすれば社員のやる気を刺激できるのか? タニタの谷田千里(たにだ・せんり)社長は常識外れの戦略を思い付いた。「終身雇用と年功序列に守られているから、社員に『やらされ感』がまん延する。正社員を辞めてもらえばいい」。退職後にそれまでの仕事と収入を補償する業務委託契約を個人事業主として結ぶ。
■ワークとライフのバランスは自分で決める
〔写真〕タニタと業務委託契約を結び、正社員時代と同じく商品企画に携わる
「もっと稼ぎたい」「未知な仕事に挑戦したい」という成長願望が強い人は自分でその場を探せばいい。就業時間とオフィスに縛られなくなるのでワーク・ライフ・バランス(仕事と生活の調和)も自由自在だ。
半面、雇用保険や厚生年金など社会保険から切り離されて、雇用の安定性を失う。それを補うために業務委託契約は3年契約を1年ごとに見直す形式にした。万一、1年目の契約交渉で仕事内容と報酬を巡り、タニタともめても、1年前に結んだ契約がまだ2年残っている。突然仕事と収入がなくなりはしない。谷田社長は「会社員とフリーランスのいいとこ取りの働き方」と説明する。
転換は本人の希望制。リストラが目的ではないので強制はしない。17年に制度を導入し、現在24人の元正社員が社内で働き続けている。
■「残業するな? バカらしい」
〔写真〕タニタ本社(東京都板橋区)
「残業規制なんてバカらしい。時間をどう使うか。自分で決めたい」。総務部で課長を務める南佑司(31)は今年、転換したばかりだ。いずれは起業して経営者になりたい。父は19歳で建設会社を興して十数人を雇っている。その後ろ姿を幼いときから憧れの目で追ってきた。「様々な経験を積み、自分をもっともっと磨き上げたい」。
17年に真っ先に手を挙げようとした。だが共働きの妻に止められた。「今辞めて何ができるの? 会社がちゃんと評価する実力を得てから挑戦したら」。それから2年、がむしゃらに働き、19年春に課長に昇格した。もう妻は反対しなかった。管理職の仕事もそのまま業務委託されたので、課長の肩書きは今も変わらない。「今春から大学院に通いMBA(経営学修士)取得を目指す。個人事業主なので学費120万円は必要経費で落とせる。大学院に通う時間も自由に捻出できる」
■半端な結果では先がない
〔写真〕5年後の個展開催に向けて創作ペースを上げるが、タニタでの仕事も決して手は抜けない
芸術家の道を再び歩み始めた大塚。5年後の個展開催が当面のゴールだ。これまでも趣味の範囲で仲間と毎年、作品展を開いてきた。個展となれば創作ペースを上げなくてはいけない。ただタニタの仕事も手は抜かない。「正社員なら納得できる成果が残せなくても『次は頑張ります』で済んだかもしれない。今は中途半端な結果では先がない」
大塚は、実はさらにもう1つ大切な役割を負っている。実家で老親と暮らし、その介護を担う。会社にもアトリエにも通わない日は、在宅勤務しながら、人工透析が必要な母を病院まで送迎し、軽い認知症の父を見守る。「芸術家と仕事と介護。3つの役割は正社員のままではこなせなかった」
雇用に安定と安全をもたらすといわれる正社員。だけど本当は正社員の檻(おり)は想像以上に窮屈な障壁なのかもしれない。
=敬称略、つづく
(編集委員 石塚由紀夫)