過労社会<下>希望押しつけ無責任 若者に身を守る知識を

 東京新聞 2013年6月5日
 
NPO法人「あったかサポート」が2011年5月、京都府立鳥羽高校の定時制で行った労働法教育の出前授業=京都市南区で(同法人提供)
 
「職場で理不尽な待遇を受けても、仕方ないとあきらめてしまう。かつての自分もそうだった」
 

 ウェブデザイナーの山口猛さん(32)=仮名=は振り返る。東京都港区のIT企業で働いていた三年前、サービス残業を強いられた揚げ句、リーマン・ショックのあおりを受けて解雇された。
 

 残業代が出なくても当たり前だと思っていた。これが会社なんだと。同僚は月の労働時間が四百時間に及び、うつになった。
 
泣き寝入りしなかったのは、後から転職してきた上司の存在があった。上司はかつて個人加盟ユニオンで働いていたこともあり、労働知識が豊富だった。
 
「これは違法だ。出退勤の記録を残しておけば残業代は取り返せる」。上司のアドバイスに、在職中からタイムカードをコピーしたり、勤務時間をメモしたりして証拠を集めた。雇用契約の書類は捨てずに残しておいた。解雇後、上司の紹介でユニオンに駆け込み、未払いの残業代を取り戻した。
 
山口さんは「労働の知識やトラブルの対処法を知っておくことの大切さを身をもって感じた」と話す。
 
しかし、学校や職場で労働者の権利や制度を学ぶ機会は極めて少ない。文部科学省が提唱するのは「働くことはこんなに素晴らしい」といった働く意欲を育むことに主眼を置いたキャリア教育だ。学生のインターンシップ(就業体験)は盛んだが、そこで、入社後に実際直面する可能性のあるトラブルへの対処法を学ぶことはほとんどない。
 
最近では無知につけこみ、過酷な働かせ方で若者を使い捨てにする「ブラック企業」の存在が問題視されている。働くルールや権利を知らないまま、社会に放り出される若者はブラック企業の前に、あまりに無防備だ。
 
厚生労働省の調査によると、二〇〇九年三月の大卒者で入社後三年以内に仕事を辞めた人は28・8%に上る。
 
国は昨年、若者の雇用環境を改善しようと「若者雇用戦略」をまとめた。ここでも議論の中心は、キャリア教育の充実や学生の大手企業志向と求人のミスマッチ解消ばかり。根底にある過重労働やサービス残業など、働く現場の問題にまで踏み込むことはなかった。
 
昨年五月、若者雇用戦略の最後の作業部会の席上、メンバーの上西充子・法政大学キャリアデザイン学部教授は、事務局が用意した原案に異を唱えた。「厳しい環境はしょうがないという前提で、骨太の若者を育てるという雇用戦略がまとめられるのは、非常に大きな問題を感じる」
 
上西教授は「労働法教育の普及に程遠い現状の中で、ブラック企業に入るのは自己責任であるかのように若者を追い込むのは酷だ」と訴える。
 
社会保険労務士らでつくるNPO法人「あったかサポート」(京都)は、〇六年から大学や高校で労働法教育の出前授業を行っている。労働条件を知るための求人票の見方など実践的な労働知識を教えるほか、困ったときの対処法や相談窓口を紹介している。
 
あったかサポートの笹尾達朗常務理事は、偏ったキャリア教育に疑問を投げかける。「これだけ若者の雇用が悪化しているのに、希望や夢だけ教えるのは無責任。学校教育の中で、身を守るすべや働くリスクまで教えるべきだ」
 
<キャリア教育> 勤労観を身に付けるとともに、主体的に進路を選択する能力や態度を育てるための教育。1999年の中央教育審議会の答申で初めて登場した。若者のフリーターやニートの増加などから、学校での教育の必要性が叫ばれるようになった。代表的な取り組みは中高での職業体験や、大学でのインターンシップ。2011年度からは大学設置基準で、キャリア教育へ取り組むことが義務化された。
  (中沢誠が担当しました)

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