米経済、最低賃金の引き上げがカンフル剤に

2013年12月2日付 英フィナンシャル・タイムズ紙
2013.12.3 日本経済新聞 海外リポート Financial Times(翻訳) –

 上司からこんな通知が届いたら、どう思うだろう。1回にドカ食いせず、2回に分けて少しずつ食べなさい。未開封のプレゼントはイーベイで売って現金に替えなさい。不平不満は言わないこと……。ストレスが一気に上がりそうだ。これは、ハンバーガーチェーンの米マクドナルドが先週、従業員に対して示した、繊細さがまるでない驚くべき文書の内容だ。足りないのはサイドオーダーのフライドポテトくらいなものだ。週40時間働いても貧困レベルから抜け出せない。そんな労働者層が米国には相当な規模で存在する。

画像(省略) 約6500人のタコマ空港職員に対し1時間15ドルの最低賃金を勝ち取ったとして集会を開いた賃上げ推進者たち(11月26日、シアトル)=AP

 一方で、米国の多くの州や都市では、それを埋め合わせるかのような動きも起きている。ここ数カ月の間で、米国では最低賃金への相当額の上乗せに賛成する投票結果が出ている。カリフォルニア州とマサチューセッツ州は、最低賃金を連邦法で定める1時間あたり7ドル25セントを大幅に上回る1時間10ドルとすることを決めた。先月にはシアトル市内のメーン空港を擁する地域で、1時間15ドルとすることに賛成する投票結果が出た。ワシントン市はこの数週間に、1時間12ドル50セントとする内容を可決するとみられる。さらに、バラク・オバマ大統領は先週、連邦法上で1時間あたり最低賃金を10ドル10セントとする法整備を支援し、インフレにつなげたいと述べた。

■企業に最低賃金引き上げの圧力

 米ウォルマート・ストアーズやマクドナルドのような一般的な小売業の企業が初めて、給与水準を引き上げるべきだという圧力にさらされている。米国の最低賃金の大幅引き上げに賛成する世論は強い。

 第一に、納税者の血税を1ドルも使わずに、いまだ足取りが重い景気回復に必要な刺激を与えることができる。一方政治は、税を使わない景気浮揚策は実現できない。実際、低所得者向けに配る食料配給券のフードスタンプや長期の失業手当に対する公共支出は2014年初めから急激に削減される見通しで、米国の消費需要の回復に水を差すとみられる。

 経済に関する事実は誰もが同意するところだ。シアトルのケースは例外で、雇用側が耐えられる最低賃金の上限を試しているようなものだが、最低賃金の引き上げは、失業率を上昇させるものではない。多くの調査結果が示すように、賃金水準をほどよく引き上げると従業員の忠誠心が増し、従業員の入れ替わりが遅くなって企業の決算内容が改善する。さらに、地域の消費支出も増えるので、企業の収益も上昇する。オーストラリアの最低賃金は米国の2倍以上に相当する15米ドルで、失業率は(米国より)低い。

■米労働者の半分が年収2万6000ドル以下

 第二に、低賃金労働者の収入を引き上げるために完全雇用は起こりえないし、ましてや保証などされない。今思えば、ビル・クリントン大統領時代の1990年代の景気拡大は、低所得層と中間所得層の収入が減少していった時代にみえてくる。米国の労働者のちょうど半分は、年間収入が2万6000ドルかそれ以下だ。もし、この30年間に賃金が生産性の向上に合わせて引き上げられていたら、低所得層および中間所得層の収入は4万ドル近くになっていたはずだ。

 多くの労働力の需要と供給が見合う市場の均衡点は、貧困レベルにあるといっていい。「ジャストインタイム方式」の在庫管理が雇用にも拡大して適用されてきた。レストランや小売りなど、多くの新規雇用が発生する不定期労働の部門だけでなく多くの企業セクターで、短期的な需要の動向に合わせて被雇用者の就業時間も増減する。これは、ビジネスの不安定要因によるリスクを株主ではなく労働者に引き受けさせることになる。

 第三に、米連邦準備理事会(FRB)は90年代以降続けてきた、景気循環が起きるまで長い期間にわたって金融緩和政策を講じることに、以前ほどの熱意を持たないかもしれない。FRBは資産バブルが膨らみ始めたら、消費者物価インフレが上昇しすぎなくても金融引き締めに動く用意があるというのが最近の通説だ。これは、90年代からこれまで、アラン・グリーンスパン元FRB議長のもとでFRBが金利を抑制し長期にわたって景気拡大策を打ってきたことから恩恵を受けてきた低賃金労働者にとっては、悪いニュースだ。金融政策はかつてのように、労働市場に深く長期にわたって浸透することはないだろう。波が上昇しても、すべてのボートが一緒に持ち上げられることはもうない。

 最低賃金の引き上げ論に異論を挟む余地はほとんどない。それなのに、活動家グループは低賃金について、ウォルマートやマクドナルドのような特定の企業の悪巧みだと非難することで、自分たちの評判を落としかねない。ワシントン市議会では最近、ウォルマートの従業員だけは1時間あたりの最低賃金を12ドルに引き上げ、ターゲットなど他の小売業者は8ドル25セントに据え置いたままにするという予算案が通過した。ベントンビル(アーカンソー州)に拠点を置き国際展開するウォルマートを嫌う組合は、これで満足だろう。

しかし、それでは所得を全般的に向上させることにはならない。ウォルマートは昨年度、4690億ドルの収入があり、利益は170億ドル。売上利益率は3%だ。もしウォルマートだけが従業員への給与払いを引き上げさせられ、競合他社は免除されたなら、ウォルマートはあっという間に雇用を減らすだろう。世間的に受け入れられる最低賃金でなければ、経済学的に理にかなわない。ワシントン市のヴィンセント・グレイ市長が法案を拒否したのは賢明だった。

 来年は経済の正念場になりそうだ。過去3年間の予算削減による縮小的な影響はなくなる。FRBは早ければ来週にだって可能な、量的緩和策の縮小に着手するのはほぼ確実とみられる。2014年、米国はようやく挽回して経済成長に入れるのだろうか。それとも、(過去の常識が通用しない領域に入っていることを意味する)「ニューノーマル(新常識)論」という不愉快な名前のついた状態に立ち往生することになるのか。

 だれも答えは分からない。しかし、広く全般的な所得の向上なしに、自律持続的な経済回復はない。世論調査によると、共和党、民主党両党の支持者の大多数が最低賃金の引き上げに賛成との結果が出ている。有権者の判断は間違っていない。それは、ほとんどすべての材料が証明している。

By Edward Luce

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