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朝日デジタル 2015年3月19日
写真・図版:「残業代ゼロ」制度とは?(省略)
安倍政権は、働いた時間に関係なく賃金が決まる「残業代ゼロ」となる新しい働き方の導入を進めている。「1日8時間」労働の原則が崩れた時、働き手にどんな影響があるのだろうか。
2月下旬の日曜。休日にもかかわらず、大手経営コンサルタント会社に勤める30代の女性は、午前中からパソコンの画面をにらんでいた。都内の自宅マンションで、顧客との打ち合わせ用の資料をつくるためだ。
大手メーカーに新規事業を提案するプロジェクトに加わる。明日は、数カ月かけて詰めてきた中間発表の場だ。「資料をまとめるのは、油絵を描く作業に似ている」と彼女は話す。
業界動向などを分析した「下絵」に、顧客企業の役員たちの考え方や社員たちのスキルなどを加える作業が、「絵の具」を塗り重ねる油絵に似ているからだ。
どのくらい時間をかければ「事足りる」のかも、わからない。この道に入り10年ほどだが、ひと通り準備をしても分析が足りない気がする。この日も資料のチェックを済ませると、すでに午前0時を回っていた。
平日は朝5時半に起き、深夜に届いたメールに返信する。8時の打ち合わせを皮切りに日中の大半は会議や出張で埋まる。夜は顧客との会食も多い。情報の分析は夜にするため、寝るのは午前1時〜2時。睡眠時間は平均4時間ほどだ。
毎月の残業は優に100時間を超える。国が定める「過労死ライン」(月80時間の残業)を上回る。「働きすぎだと思う。でも目の前には仕事がある」
「アップ・オア・アウト(昇進か退職か)」。経営コンサル業界には、こんな言葉が浸透する。
結果を出せば数年で昇進し報酬も増える。だが、評価が低いと仕事が回ってこない。「退職せよ」という無言の圧力だ。女性は大学を出て入ったコンサル会社で、退職勧奨を受けたことがある。今の会社に再就職できたが、「同じ思いはしたくない」。
残業代ゼロとなる「高度プロフェッショナル制度」のねらいについて、政府は「働いた時間ではなく、成果で賃金が決まる」とする。成果を重視される経営コンサルはその対象に入る可能性が高い。
女性の場合、残業代も含め年収は約900万円。さらに評価が上がれば、新制度の年収要件の1075万円に届くことになる。
顧客企業がコンサルに助言を求めるのは、業績不振により事業の立て直しを迫られている時が多い。失敗すればリストラが待ち受け、企業の担当者たちも必死だ。手をぬいた提案では顧客は満足してくれない。
今は顧客との会議を重ねるたびに「彼らの人生を背負い込んでいる」という自負と重圧を感じる。
仕事の疲れやストレスで、過食に悩んだこともある。自分の働き方はどうなるのか。「正直言って怖い」と女性は話した。
労働基準法は、1日原則8時間を超えて働かせてはならないと定める。実際は労働組合が同意すれば、さらに働かせることができるが、企業に割増賃金を支払うことを義務づけることで、長時間労働の「歯止め」にしている。
「原則8時間」の規制がなくなればどうなるのか。労働政策研究・研修機構が2008年に実施した調査では、管理職など働く時間を管理されていない従業員では、サービス残業も含め、月280時間を超えて働く人の割合が、全体の平均の3倍ほどいた。
長時間労働は、働き手の心や体をむしばむ。
女性と同じ会社で働く40代の男性は5年以上前、うつ病と診断された。いまも市販の頭痛薬を所定量の倍ほど飲む。「主治医から薬を止められているが、頭が痛くて仕事ができない」
サービス業から経営コンサルに転職し、15年ほどになる。部下を使ってプロジェクトを指揮する立場に昇進したが、それでも徹夜する日がある。
特にきつかったのは昨夏ごろ。顧客の事業所の再編にかかわったが、経営方針が変わるたびにプロジェクトの練り直しを迫られた。
「コンサルの仕事は、終わりがなくなってしまう時がある」
果てなき労働の「歯止め」が、外されようとしている。(牧内昇平)
■健康対策、労使とも学んで
「残業代ゼロ」の働き手の健康への影響について、労働科学研究所の佐々木司・慢性疲労研究センター長に聞いた。
――「残業代ゼロ」の働き方をどう評価しますか。
「労働基準法が定める『1日8時間労働』の規制は、健康を守るうえで非常に重要な意義がある。日中8時間の労働なら、帰宅後に家族と過ごす時間を確保し、じっくり睡眠をとれる。1日の心身の疲労は、その日のうちに回復させることが大切だ」
「ホワイトカラーは身体労働より負荷が小さいから、疲労回復に必要な休憩や休息を後回しにしがちだ。労働時間への規制をなくせば、長時間労働が助長され、労働者を容易に過労に追い込んでしまう。会社が過剰な仕事を命じる場合はもちろん、働く側が仕事に生きがいを感じる場合も同じだ。仕事の緊張や面白さによって、疲労は容易に隠されてしまう。働く『時間』だけでなく、『時刻』も考えるべきだと言いたい。人間は有史以来、昼働いて夜眠るというリズムで暮らしている。健康で働き続けるためには、残業や深夜休日勤務への規制は維持すべきだ」
――政府は「働いた時間ではなく成果で賃金が決まる」としています。
「成果主義は、仕事がうまくいっている時はいいが、成果を追求すれば昼夜の別なく働くことになる。リズムを乱し、ストレスになってしまう。過労や病気につながり、結局は職業人生を全うできなくなる」
――導入企業は健康対策を講じることが条件です。
「不十分だ。年間の休日数を確保しても、平日の労働時間には歯止めがかからない。月間の労働時間に上限を設けても、深夜の仕事が多ければ健康を害する。人間は一晩眠ったとして、肉体の疲労は眠りの前半に回復し、ストレスは後半に解消する。高度プロフェッショナルとは、頭を使って創造的に働く職種だと思うが、神経をすり減らしている人ほど長時間眠らないと疲労は回復しない。ストレス解消のためには余暇の時間も必要だ。欧州では、1日11時間の休息を義務づけるが、ストレスが多い職場では11時間では足りない。会社も労働者も、もっと学ぶべきだ」
――現在の労働時間規制は十分なのでしょうか。
「数十年来、過労死や過労自死が相次いでいる。長時間労働を防ぐには抜本的な対策が必要だ。労使協定を結べば青天井の残業が可能になる制度は廃止すべきだ。欧州諸国のように、残業も含む1週間の労働時間に上限を設けることが必要だ」
◇
〈「残業代ゼロ」制度〉 安倍政権が、成長戦略の目玉の一つとして昨夏に大枠を閣議決定した。その後、厚生労働相の諮問機関である労働政策審議会が今月に制度の細かい点を決めた。政府は今国会に労働基準法改正案を提出する予定で、来春の実施をめざす。労働組合と合意してあらかじめ決めた労働時間分に限り、残業代を含めて賃金が出る裁量労働制と違って、残業代や深夜・休日の手当が一切出ない。