厚労省 医師の働き方改革の推進に関するヒアリング 資料
令和元年8月23日(金)
照会先 医政局 医師・看護師等働き方改革推進官
岩間 勇気(内線2592)(代表電話) 03-5253-1111(直通電話) 03-3595-2206
https://www.mhlw.go.jp/content/10800000/000539457.pdf
女性差別社会での医師労働
東京過労死を考える家族の会・医師の働き方を考える会共同代表 中原のり子
「あなたたちは激烈な競争を勝ち抜いてこの場に来ることができました。その選抜試験が公正なものであることを疑ってないと思います。もし不公正であれば、怒りがわくでしょう。が、しかし、昨年不正入試問題が発覚し、女子学生と浪人生に差別があることが発覚しました。」この驚きの祝辞を本年4月の東京大学入学式で上野千鶴子名誉教授が述べました。この社会は、頑張っても公正に報われない社会が待っていることを示唆しました。今までの医学部入試で、女性・浪人生への差別を噂レベルで知っていたとしたとも、実際に行われていたという事実にショックを受けた方もいたのではないでしょうか?多浪生は使い物にならず、女性は医師に向いていないのか?多くの疑問が湧いてきます。
「不適切入試が起きたのは、女性医師を増やしたくないという考えが根底にあったからです。」東京女子医科大学・医学部長、唐澤久美子教授は指摘します。「女性医師は男性医師より働かないので、女性医師が増えたら大変なことになる。」こうした医学会の根強い考えは、長時間労働が当たり前の勤務体制にあるのです。安く過酷な労働に耐えられる人材を求めるために、多浪生と女性を排除する風習があり、医療界最大の弊害なのです。
「経済大国日本の首都で行われているあまりに貧弱な小児医療。不十分な人員と陳腐化した設備のもとで行われている、その名に値しない(陳腐化した)救急・災害医療。この閉塞感の中で私には医師という職業を続けていく気力も体力もありません。」この《少子化と経営効率のはざまで》(HP に全文掲載)を遺して、亡夫・中原利郎(当時44歳)は1999年8月、勤務先の病院の屋上から飛び降りました。
亡くなる半年前に小児科部長代行に就任したばかりでした。そのレポートには、『小児科学会としても、小児科医の1/4 以上を占める女性医師が育児と仕事の両立をはかれるよう提言を行っていますが、わが病院でも女性医師の結婚・出産の際には、他の医師に過重な負担がかかっているのが現状です。』と管理職としての苦悩も記されています。6人の小児科常勤医のうち、男性は夫1人だけでした。夫が部長代行になった1999年2月、前部長が定年退職。3月には50歳代の女性医師が、両親の介護と仕事が両立できず病院を去りました。さらに半年の産休から戻る予定だった医師は、病院から「月4回以上の当直の出来ない医師は辞めて欲しい」と迫られ、「小児科医師なんて、リストラか過労死で職場をさらないといけないのか」と呟いて退職しました。その半年後に夫は自死を選んだのです。夫は、この産休からの復帰予定の医師が子育てと仕事を両立できるよう、当直を月 2 回に減らす稟議書を書いたにもかかわらず、書類は受付印もないまま残されていました。病院に出せる雰囲気ではなかったのでしょう。日中だけでも働いてもらえたら良かったのに、と後悔だけが残ります。その後、夫の当直は 8 回にのぼる月もあり、24 時間 365 日小児科単独の診療体制は続き、経営効率を上げるように上からのプレッシャーも重くのしかかりました。8 月には、心身の状態が悪化して「院長・事務長に退職の話をするから」と約束して家を出た 10 時間後、真新しい白衣に着替え、身を投げたのです。
当時、高校 3 年生だった長女・智子は医学部への進路相談をするたびに、父親から大反対されました。夫はある時、医学部の分厚い入学案内パンフレットを未開封のビニール袋ごと真二つに破り捨てました。ただ、娘を医者にしたくないという気持ちが無意識に働いたのか、我に返って娘には何度も謝り続けていました。その後、娘は父親が自死したその日に「今まで育ててくれて有難うございました。それでも私は医者になりたい」と亡骸に訴えました。私は「賛成はできないけれど応援はする」と約束し、その半年後、彼女は医学部に進学、小児科医師になり研修が始まりました。指導医から、「女医は、結婚して子供を産むと他の医師に迷惑をかけるから、働けるときには男性医師の 3 倍働け」と言われ、結婚して子どもが出来たら「子どもは院内保育所に預けておけば、勝手に育つ」と言われ、当直に励むように指導されました。会議の中で「僕の娘には女医になるな!と言い続けている」と、娘は父親からも同じような言葉を云われたことを思い出したようです。娘は、月に 6 回もの当直を続け、流産も経験して力の限界も感じたことでしょう。
ちょうどこの頃、夫が亡くなって 11 年経過し、病院の安全配慮義務違反を問う裁判で 1 審・2 審とも完全敗訴が続いた後、最高裁判所から和解の打診がありました。想定外でしたが、「中原先生はスタッフ全員女性の中で黒一点、どれ程ご苦労されたでしょう」。私は、女性首席調査官のこの言葉を聞いて和解を受ける決意をしました。女性医師を支援したいと孤軍奮闘し続けた夫の働きを、理解してくれたのです。業務起因性と長時間・過重労働の実態を訴え続け、ようやく夫の苦労を正しく判断する方に巡り会えました。和解成立の記者会見で、娘は「私のような子持ちの女医でも、働き続けられる労働環境であって欲しい」と訴えました。女性が幸せに働けない環境では、男性も幸せになれません。女性医師への社会的支援があれば、夫は死を選びませんでした。
いま医師の働き方改革も進んでいますが、本年3月の報告をみても 16年後(2035 年まで)現状維持です。夫が「馬車馬のように働かされている」と嘆いたこの環境を改善しないと、へき地にも医師は集まりません。今年の入学試験の結果では、女子学生も多浪生の入学も例年よりは多かったようですが、一時しのぎの対応に騙されてはいけません。女性医療人のキャリア形成や環境整備が、依然として不十分です。長時間過重労働の下、全ての医師が輝き、続けられる保証はありません。
女子の潜在能力を自国及び人類に役立てること(国際女性差別撤廃条約)、および女性活躍推進法これが真の男女共同参画です。男社会の傾向が特に強い外科では、「子育て中の女性医師に仕事を与えない」という実態があるように、医療界では一度離れると職場復帰は極めて困難です。女性消化器外科・河野恵美子医師は、女性目線での仕事を継続するという新しい取り組みに挑戦しています。「女性であることはハンデではない、むしろアドバンテージ」と言い、仕事と育児を両立することや看護師と医師との連携を積極的に取り組んでいます。「消化器外科女性医師の活躍を応援する会」を立ち上げ奮闘中です。
その一方で、娘を過労死で亡くした家族もいるのです。「娘(26歳)は希望に燃えて研修を開始しました。当直は年に77回、疲れ果て自ら筋弛緩薬を点滴して自死しました。医師も生身の人間です。疲労しますし、睡眠時間は必要です」また「医師の過酷な勤務を知っていれば娘を医者などにはさせませんでした。医師不足のため遠隔地の病院に赴任して二年後の寒い朝、娘は何も告げずに他界しました。(体調が崩れても)患者(人間)として扱われず、入試・国試に合格して感涙したあの日が虚しく蘇ります。今まで、どれだけ多くの医師が命を落とされたことか、多くの殉職された方々に国を挙げて感謝と反省をすることが改革の一歩と思われます」と父は訴えます。
私たち医師遺族・家族は、医療者すべてが患者に最高の医療を提供することを願っています。しかし、それと引き換えに、自らの生と幸せを差し出すことは望んではおりません。医療者の聖職者意識・犠牲的精神の上に成り立つ労働環境を、これ以上許してはなりません。私は、医療者も患者も共に幸せに暮らせる、「真の働き方改革の実現」を心から願っています。
以上