過労で自殺未遂、復職後に病死 追い込まれる労働者

西日本新聞 2013年2月25日

自殺を図って約10日後、次女が上司に送ったメール。上司からは「できるだけ早く連絡します」などの返事しかなく、緊張した様子で自宅待機を続けていたという(実際の送受信内容を基に再現しました)

 「世の中から過労死をなくしたい。何よりも命を大切にする社会になってほしい」。福岡市でシステムエンジニアとして働いていた次女=当時(31)=を、6年前に過労死で亡くした両親=大分市=は願い続けている。次女は長時間勤務が続く中、業務上のトラブルがきっかけで自殺を図り、約1カ月後の復職直後、心臓疾患で突然死した。毎年、過労死で労災認定される人は全国で100人以上。精神的に追い込まれての「過労自殺」も後を絶たない。「娘と同じようにつらい思いをしている人はたくさんいるのではないでしょうか」

 「やっぱり今の会社に残る」。娘が自殺を図った後、しばらくしてこう告げられた。母親(64)はこのとき止めなかった自分を責め続けた。「当時は正常な判断ができなくなっていたのでは。無理にでも辞めさせていれば…」

 次女を過労死と認めた福岡中央労働基準監督署の認定などによると、次女はシステム開発会社(東京、昨年別会社と合併)の福岡事業所に勤務。亡くなった2007年は、顧客企業の人事管理システムの改修を担当していた。顧客からは追加や変更の注文が相次ぎ、当初の予定より業務量は大幅に増えたが、担当者は増員されず作業は遅れていった。同年2月の時間外労働は、「健康障害のリスクが高い」とされる月100時間を超え、127時間に及んでいた。

 納期を目前にした同3月初旬、急きょ、顧客の前で行われたテストでプログラムが全く作動せず、責任を感じた次女は、ほとんど不眠で作業を続けた。精神的にも追い詰められ、発作的に会社から飛び出して自殺を図ったが、未遂に終わった。

 翌朝、次女からの電話を受けて母親は福岡市に駆けつけた。楽観的な性格からは、自殺未遂など想像もできなかった。「会社に迷惑を掛け、生きてちゃいけないと思った」。言葉少なに語った娘の憔悴(しょうすい)しきった姿を今も忘れることができない。

 上司からは「娘さんのミスではありません」と電話で言われただけで、会って話を聞くことはできなかった。次女は「明日はどうしたらよろしいでしょうか」などとメールを何度も送ったが、会社側から具体的な指示はなく自宅待機が続いた。約1カ月後、急に出社を求める連絡があり、復職初日から未明まで残業。翌朝には東京に出張し、4日間働いた後、宿泊先で亡くなっているのが見つかった。診断は致死性不整脈。日曜日だったこの日も出勤予定だった。

 両親は、次女が亡くなって初めて、過酷な勤務実態を知った。上司は自殺未遂のことを本社に報告すらしていなかったという。09年9月に労災と認められ、両親は10年3月に会社を提訴。昨年10月の福岡地裁判決は「時間外労働の増加や精神的緊張を伴う特に過重な業務だった。会社は健康状態を確認せず、復帰後に勤務の軽減措置も講じていない」と会社の賠償責任を認めた。会社側は「過重な業務ではなく、賠償責任はない」と主張して控訴し、福岡高裁で係争中だ。

 両親は「娘が、私の死を無駄にしないでと呼び掛けている気がします。その遺志を受け継ぎたい」と話している。

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