(今こそ河上肇) 「貧困と格差」論、まるでピケティ

http://www.asahi.com/articles/DA3S12105069.html
朝日デジタル 2015年12月7日

 豊かな時代の貧しさについて、解決策を考え抜いた経済学者が1世紀前の日本にいた。

 

 99年前の師走、日本国内が第1次世界大戦下の好景気にわくなか、大阪朝日新聞には夏目漱石「明暗」とともに、「貧乏物語」が連載されていた。筆者は京都帝国大教授、河上肇(かわかみはじめ)。社会問題になり始めていた貧困を経ログイン前の続き済学者の視点で取り上げ、翌年刊行の書籍はベストセラーとなった。

 「物語」とあるが小説ではない。「いかに多数の人が貧乏しているか」「何ゆえに多数の人が貧乏しているか」「いかにして貧乏を根治しうべきか」の3章構成で、先進国における格差の広がりを、統計を図示しながら説明した経済書。ん、どこかで見たような。テーマといい、論の進め方といい、まるで今年話題になったトマ・ピケティ21世紀の資本』ではないか。

 「豊かさの中の貧困に注目した点では、1世紀前のピケティと言ってもいい」と経済学者の田中秀臣・上武大教授は話す。河上は執筆前年までの約1年半、欧州に留学し、最強の先進国だった英国の貧困の現状を目のあたりにした。「それまでの日本で貧困問題といえば、都市と農村の格差でした。しかし、近代化が進むなか、豊かなはずの都市にも取り残される人が出てきた。先進国へと向かっていた日本に、警鐘を鳴らした学術書として新鮮だった」

 2章までの論述はさすがに学者らしい。人間は怠ける者だから貧乏は人間を働かせるために必要との意見に対し、今日の西洋の貧乏はいくら働いても貧乏は免れない「絶望的の貧乏」と指摘し、貧困の構造を解き明かしていく。日本はさらに貧しく、書籍刊行の翌年には米騒動が起きた。

 ではどうするか。ざっくりまとめると「みなぜいたくをやめよう。特に金持ちは。生産者はぜいたく品を作らなくなり、生活必要品が安価に行き渡るようになる」。え、個人の心がけで解決するのですか、先生。実際本人も「実につまらぬ夢のごときことを言うやつじゃと失望されたかたもあろうが」と書いている。

 経済学者の故・大内兵衛はこの時期の河上について「経済学をもって倫理の学と考えていた」と書いた。田中教授も「若い頃にキリスト教思想家の内村鑑三に影響を受け、利他的に生きることが結果的に社会の幸福を導くと考えていた。個人のエゴイズムをどう制御するかは、河上思想に一貫するテーマです」。

 「貧乏物語」は他の経済学者から批判を受け、河上は著書を自ら絶版にする。そして貧困の解決を当時の最先端思想のマルクス経済学に求めていく。貧乏を無くすには労働が必要だが、苦役ではなく楽しく働くにはどうすればいいか……。そんなことをあれこれ考えながら、新興国のソ連を、個人主義(資本主義)に対抗する理想社会と考え、教職を辞し、政治活動としてのマルクス研究に専心する。

 「河上経済学は富は人生の目的ではないと考えるところから始まっている」と話すのは、河上の近代中国への影響力を詳述した『甦(よみがえ)る河上肇』(03年)の著者、三田剛史・明治大専任講師だ。「貧乏が問題なのは、一個人が人生の目的を達するためのスタート地点に立てないから。解決のため、制度改革と人心改革をどうすればいいかを悩み続けた。社会主義と人道主義が混じり合うのが河上思想です」

 しかし、私たちはなお「貧乏物語」を解決できない時代を生きている。河上が期待した実験国家はとっくに滅びた。河上思想もまた滅びるだけなのか。三田さんはいう。

 「河上は貧困の解決を生涯考え続けた。その姿勢こそ学ぶべきです」

 (野波健祐)

 

 <足あと> 1879年、山口県生まれ。東京帝大卒業後、講師などを経て、1908年に京都帝大へ。16年に新聞連載した「貧乏物語」はベストセラーになる一方、厳しい批判も受けた。以降、マルクス経済学に傾倒し、28年、京大教授を辞して労働農民党に参加。32年からは共産党の地下活動に参加し、翌年、治安維持法違反で収監される。37年、刑期満了で出獄、戦後の活動再開を期したが、46年死去。

 

 <もっと学ぶ> 河上思想の変遷をたどるには、没後の47年刊行の『自叙伝』(岩波文庫、全5巻)。入獄生活を細かく書いた「獄中記」部分が圧巻で、伝記文学としても優れている。

 

 <かく語りき> 「人間は人情を食べる動物である。少(すくな)くとも私は、人から饗応(きょうおう)を受ける場合、食物と一緒に相手方の感情を味(あじわ)うことを免れ得ない」(『自叙伝』「御萩〈おはぎ〉と七種粥〈ななくさがゆ〉」から)

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