(働き方改革を問う:1)同一労働同一賃金 指針作り、水面下で

 朝日DIGITAL 2017年5月14日

http://digital.asahi.com/articles/DA3S12936461.html

「同一労働同一賃金」のイメージの違い(画像省略)

2015年12月8日の朝、国会近くのザ・キャピトルホテル東急のレストラン「ORIGAMI(オリガミ)」の個室で、東大教授(労働法)の水町勇一郎は1億総活躍担当相の加藤勝信と向き合っていた。加藤は水町の話に熱心に耳を傾け、カスピ海ヨーグルトを口に運びながらメモをとった。

翌16年1月22日の衆院本会議。首相の安倍晋三は施政方針演説で、非正社員の待遇改善を進めるため、「同一労働同一賃金の実現に踏み込む」と宣言した。

ニュースで演説を知った水町は驚いた。「こんな形で首相が言うなんて」

正社員も非正社員も、同じ仕事をすれば同じ賃金を払う「同一労働同一賃金」の原則は、格差是正策として主に野党が導入を訴えてきた。日本に比べて賃金格差が小さい欧州諸国をモデルにした主張だが、年功色の強い賃金体系が定着する日本で実現するのは困難との見方が強い。

それに異論を唱えたのが、水町が11年に発表した論文「『同一労働同一賃金』は幻想か?」。フランスとドイツの労働判例を幅広く分析し、同じ仕事をする社員同士でも、合理的な理由があれば賃金差をつけて処遇していることを紹介。欧州を手本にした制度を日本に導入するには、待遇差が合理的か否かを示すことが必要だと提言した。

論文は政策担当者の目にとまり、安倍政権が掲げる「同一労働同一賃金」の「理論的支柱」になった。昨年9月には「働き方改革実現会議」が発足し、「同一労働同一賃金」は看板政策になった。
 ■切り回す「将軍」

そこからさかのぼること2年前。14年10月の衆院本会議で、同一労働同一賃金推進法案を提出した野党議員の質問に安倍はこう答弁した。「我が国の労働市場においては、こうした仕組みを導入するには乗り越えるべき課題があります」

官房副長官だった加藤は、官邸の打ち合わせで安倍がこう言ったのを鮮明に覚えている。「こんな答弁でよいのだろうか」

フランスの経済学者、トマ・ピケティが著した「21世紀の資本」が話題になり、野党が「アベノミクスで格差が拡大した」と主張し始めたころだ。「非正社員には正社員との格差がある。何かできないかという問題意識を首相はずっと持っていた」と加藤は振り返る。

「新しい政策を考えるので、話を聞かせてほしい」

15年1月23日。政府関係者から連絡を受けた水町は東京・永田町の中央合同庁舎8号館を訪ね、内閣府の官房審議官(当時)の新原浩朗(にいはらひろあき)を相手に自説を披露した。新原は経済産業省出身。霞が関では「結果を出す」官僚との声がある一方、「部下を容赦なく怒鳴りつけ、情報管理を徹底する」仕事ぶりで知られ、ついたあだ名は「将軍」。

労働政策に関わったことはほとんどないが、後に内閣官房に設けられる「働き方改革実現推進室」の室長代行補に就任し、看板政策を切り回すことになる。
 ■非公式「勉強会」 

昨年7月12日、東京・丸の内の森・濱田松本法律事務所の一室。厚生労働省や内閣官房の官僚や、労働法学者らを集めた非公式の「勉強会」に参加する新原の姿があった。

新原らは、水町の論文を土台にした「同一労働同一賃金」の実現には「企業に押しつけられるガイドライン(指針)が必要」だと考えていた。当時、指針の参考にしようと欧州の判例を集める作業が進んでいた。

同事務所は、経産省が公募した、欧州の労働裁判の事例を研究する事業を約1千万円で受注。研究成果が報告された勉強会には、同事務所に所属する弁護士、高谷知佐子の姿もあった。

高谷は、正社員と同じ仕事をしているのにボーナスや手当に不合理な差があるのは違法だとして日本郵便の非正社員12人が同社を相手取り、待遇改善を求めて起こした裁判で、日本郵便側の代理人を務めている。

指針の内容は裁判の行方に影響を与えかねない。訴訟の当事者である企業の代理人が加わる会合では議論の中立性に疑念を持たれかねないが、新原らが意に介する様子はなかった。

政府は昨年3月、水町や国内外の賃金制度に詳しい有識者を集めて「同一労働同一賃金の実現に向けた検討会」を設置。表向きはこの場で看板政策の立案に向けた作業が進むとみられていたが、実際は違った。作業は水面下で進められた。

朝日新聞が入手した文書「同一労働同一賃金のガイドライン たたき台」がある。昨年9月8日付。働き方改革実現推進室が設置されたわずか6日後、首相官邸で働き方改革実現会議の初会合が開かれる3週間前だ。表紙には「経団連調整用」の文字。正社員と非正社員の待遇差について「良い例」と「悪い例」を示すもので、昨年末に公表された指針案に近い内容だった。

新原らは「原案」を持って、水面下で経済界との調整も進めていた。有識者による検討会は、すっかりないがしろにされていた。
 ■「非正規一掃」しぼむ期待

「同一労働同一賃金を実現し、『非正規』という言葉を日本国内から一掃します」。参院選を控えた昨年6月1日の記者会見で安倍はそう宣言した。政府の指針案には、格差是正を進める効力があるのだろうか。

「労務担当者に見せたら、厳しくて『ギャー』と言いますよ」。政府が指針案を公表する4日前の昨年12月16日、その内容を報道機関に事前に説明する場で新原は声を張り上げた。「(格差是正の)実効性は上がる」とも強調した。

指針案は、通勤手当や食事手当などで正社員と非正社員の待遇差を認めなかった。この点では格差是正に一定の効果はありそうだ。

一方、賃金の骨格となる基本給では「正社員と同一の職業経験・能力を蓄積する非正社員には職業経験・能力に応じた部分につき同一の支給をしなければならない」とした。だが、非正社員の経験や能力を評価する賃金体系がない企業には「この規定はあてはめようがない」(厚労省)。実際、日本では正社員と非正社員の賃金体系を別にしている企業が圧倒的に多く、基本給の差を縮めるかは各企業の労使の判断次第だ。有識者による検討会の関係者は指針案をこう評した。「立派そうに見えるけど、中身はスカスカだ」

=敬称略

(千葉卓朗、編集委員・沢路毅彦)
 ◆キーワード

<同一労働同一賃金とガイドライン案> 同じ仕事をする労働者に同じ賃金を払う「同一労働同一賃金」の原則は、欧州ではもともと、男女間の賃金差別を禁止する規定だった。欧州では、産業別に労働組合と経営者団体が話し合い、仕事内容と職務等級に応じた基本給の水準を企業横断的に決めるため、同じ仕事で同じ等級の労働者は雇用形態にかかわらず同じ賃金になる。

日本政府が目指す「同一労働同一賃金」はこれとは異なる。企業ごとに社員の賃金を決める日本では、正社員と非正社員の格差は企業ごとに是正していく必要がある。現行の労働契約法やパートタイム労働法には、正社員と非正社員の不合理な待遇差を禁止する条文があるが、どんな差が「不合理」かが不明確で、実効性に乏しい。

政府は昨年12月、同一労働同一賃金のガイドライン(指針)案を策定し、今年3月にまとめた「働き方改革実行計画」に盛り込んだ。基本給、賞与・各種手当、福利厚生などの項目ごとに、どんな待遇差のつけ方が「不合理で問題があるのか否か」を示す内容で、非正社員の待遇改善を企業に促すことを狙う。政府は指針案に実効性を持たせるために関連法を改正する方針で、指針案は改正法の施行日から効力を持つ。
 ◇同一労働同一賃金と残業時間の上限規制を2本柱とする政府の「働き方改革実行計画」が3月にまとまりました。政策決定の舞台裏を検証し、働き手の現場を見つめることで、この計画が私たちの働き方にもたらす影響を考えます。日曜日朝刊の経済総合面に8回連載します。終了後に記者自身の働き方についても取り上げます。

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