年越し派遣村から約10年…いま「ネトウヨ」と呼ばれる男の過酷人生
ビニールテントの中の孤独
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/69546
藤岡 雅週刊現代記者 2019.01.01 週刊現代(gendai.ismedia)
取材ライタープロフィール
□年越し派遣村騒動から約10年が経ったのに…
「年越し派遣村」のことを覚えているだろうか。
〔photo〕gettyimages
08年の9月15日のリーマンショックからわずか3ヵ月弱のことだった。日本企業はいっせいに派遣切りに走り、特に寮生活を送っていた製造業の非正規社員たちは、住む家も失った。筆者が出張で訪れたJR名古屋駅で、まだ20代と思しき若者が、自販機のつり銭受けに手を入れている姿を目撃したのもちょうど08年の年末だった。
職を失った人たちが日比谷公園に集まった「年越し派遣村」から約10年。時代は変わって令和になった。当時、怒りに震えて、失意に打ちひしがれた彼ら、彼女らはあれからどうしているのだろうか。
「いま僕はネトウヨと呼ばれています。正直、心外ですけどね」
東京・池袋の居酒屋で数年ぶりに再会した男は開口一番、こう語った。筆者は約12年前、非正規雇用の労働問題をよく取材していたのだが、その時に知り合ったのが彼だった。彼は当時、パナソニックを相手に労働争議を戦っていた。
今年、46歳となる岡田正雄(仮名)はいま、機械関係の仕事をしている。12年前もそうだったように、いまも非正規社員である。
岡田のツイッターには、ストレートな「怒り」がぶつけられていることが多い。いまは韓国の文在寅政権や、あいちトリエンナーレ、東京新聞の望月衣塑子記者を批判する保守系を名乗るネット媒体やオピニオンリーダーの発言を好んでリツイートしている。
岡田が「ネトウヨ」と呼ばれるほど、排外的な思想を持ち合わせているとは筆者は思わないが、こうした言説がいまの岡田の目に映る社会問題なのだろう。
岡田は言う。
「10年前の社会問題は?派遣切り″でしたが、いまの日本が抱える社会問題は韓国や中国の横暴と、それを制止できないリベラル勢力の存在です。とくに最近は中国や韓国の問題をネット上で調べることが多くなりました」(以下、断りのない発言は岡田)
□消えない「怒り」
彼がかつて行動を共にしていた労働弁護士や社会運動家たちはみな左派系だったことを考えると、筆者はこの変化に12年という月日を感じざるを得なかった。
おそらく彼が「?ネトウヨ″と呼ばれている」と吐露するのも、かつての仲間を意識しているからなのだろう。
ただしひとつだけ変わらないことがある。岡田の行動の源泉には決まって「怒り」があることだ。岡田はあのころを境に「怒り」に身を任せる生き方を選んだのだ――。
2005年8月、岡田は「松下・プラズマ・ディスプレイ」(のちのパナソニック・プラズマ・ディスプレイ。以下パナソニックと表記する)で直接雇用され、仕事をしていた。
その部屋は資材置き場だったが、匂いもひどく、ゴミ捨て場とも廃材置き場ともいえるような部屋だったという。その部屋のすみに角ばったビニールテントが張られており、その中が彼の作業場だった。
〔写真〕岡田の作業場であった「テント」
作業員は岡田ただ一人。与えられた仕事は、製造過程でミスのあったプラズマ・ディスプレイに薄く張られたシートをひたすら剥がすことだった。
岡田が上司から与えられた「チェックポイント」は多岐にわたっていた。当時、岡田が上司から手渡された作業要領の資料が、筆者の手元に残っていたので、一部、書き出してみよう。
・ガラス製品なので割れに注意する事。
・短辺側フレキは持たない・傷をつけない。
・ピンセット・カッターを使用して剥がすがパネルには傷をつけない事
・竹串使用(ゆっくり、ていねいに、こすり取る)
・コットンを使用して拭取りながら特に端子間にACFテープが残らないように取り除く
☆端子切れを起こさないように注意する。
しつこいくらいの?キズをつけるな″という指示が並んでいることがわかるだろう。
□ビニールテントの中の孤独
しかし、プラズマ・ディスプレイは「精密パネル」である。
そのシートをはがすのに、竹串とかピンセットのようなアナログな道具を使えといわれたうえ、これを手作業でキズをつけずに済ませるなどということは、本当に可能なのか。
「可能なわけがないじゃないですか。だって、これは当時、僕が受けた嫌がらせなのですからね」
作業用具として支給された竹串、しゃもじ…
岡田は続けて言う。
「そもそも運ばれてくるディスプレイは、これまでなら廃棄処分にしていたものです。ディスプレイに専用シートを張る際には、クリーンルームでもごく僅かな製品に、微小のチリが混じってしまうことがありますが、その部分をルーペで探して、竹串でシートをはがせと言うのです。何の意味もない作業なのに、途方もない神経をつかうことになる。
こんなことを僕はたった一人で何時間も、何か月もやらされていたんです。しかも、わざわざクリーンルームを装うかのようなビニールテントの中で作業するんですよ。他の社員から僕を隔離する目的以外に、そのテントに意味はありませんでした」
隔離し、意味のない作業を延々と与える――。
日本を代表する大手企業がこんなことをするとは、にわかには信じられないが、のちの裁判でこの岡田への仕打ちは「不法行為」と認定される。なぜあのときこのような人倫にもとるようなことが行われたのだろうか。
□2000年代の労働者たち
岡田はやると決めたら何事にも熱心で、優秀な男だった。当初はパナソニックでも重宝されていたようだ。
もともと岡田は04年1月に、プラズマ・ディスプレイ工場の作業を請け負う会社に入社。パナソニックに送り込まれて、仕事を始めた。数ヵ月もすればプラズマ・ディスプレイの生産工程を身につけ、製造現場にはなくてはならない存在となっていた。
〔photo〕gettyimages
この当時、パナソニックは高画質、高品質のプラズマテレビに巨額の投資を行い、阪神の工場地帯に巨大な工場が建設されていた。
一方で社員の給料の高止まりにあえぐ日本メーカーは、海外メーカーとの激しいコスト競争にさらされ、国内工場で雇用を維持するためには労働者の人件費を下げる必要に迫られていた。こうした需要を背景に当時、労働者を集めメーカーに送り込む「請負会社」が乱立していた。
すぐに製造現場では矛盾が生じはじめる。パナソニックの社員労働者には従来のブラウン管の技能は備わっていたが、プラズマ・ディスプレイの技能は持っていない労働者も多数、存在していた。そうした中で、じつは現場でいちはやくその技能を身につけたのは、岡田のような非正規労働者たちだったのだ。
「年配の社員たちは、新しい技能を身につけることに後ろ向きな人もいた。逆に僕らは仕事を覚えて早く一人前になりたい。当然、やる気のある非正規社員のほうが技能を早く身につけるので、正社員たちを指導するようになっていったんです」
□「派遣切り」に突き進む企業たち
岡田が続けて言う。
「やがて僕はパナソニックの責任者たちに混じって打ち合わせをし、製造工程の改善も助言するようになりました。現場では、社員や非正規社員に指示を出し、彼らの作業の進捗も管理した。
それでも僕の立場は非正規のまま。いつまでたっても社員と同じ福利厚生は得られないし、より多くの収入を得るには休日出勤をして誰よりも働くしかない。どこまで働いても社員の給料には及びませんでした」
矛盾はそれだけではなかった。
岡田が一心不乱に務めるこの仕事の実情が、徐々に社会問題として大きく報道されてゆくようになる。その問題こそが、04年ごろから新聞各紙で指摘されはじめた「偽装請負」だった。
「偽装請負」とは、「請負契約」を装い、派遣社員として働かせる違法行為。本来、労働者に対して指揮命令できるのは仕事を請け負った会社であり、メーカーは指揮命令できなかった。ところが実態はメーカーが自ら指揮命令して請負会社の労働者を働かせていたのだ。
当時のメーカーの多くが職業安定法44条の労働者供給事業の禁止規定に抵触していた。
一方で04年3月には労働者派遣法が改正され、製造業への派遣が認められる。メーカーは派遣契約を結べば指揮命令が可能となったのだが、使用者責任や労働安全上の義務を負う上、一定期間が経過すれば直接雇用を申し込む義務があった。この負担を嫌い、結局、日本メーカーのほとんどが、派遣法が改正された以降も「偽装請負」という違法状態を継続したのだ。パナソニックも同じだった。
そんな折、パナソニックの統括班長から、人件費カットの方針が岡田たちに伝えられる。それは「悪いようにはしないので、別の請負会社に移籍してほしい」というものだった。
□黙っていられなかった
岡田が実態を調べてみると、いま所属している請負会社の時給は1350円だったのに対し、移籍先の時給は1100円。統括班長の言葉に反し、時給が減額されることが分かったのだ。
労働組合の支えを得られない非正規労働者にとってこれを拒否することは、仕事を失うことに等しかった。しかし黙って受け入れると、あまりにも自分たちの立場を貶めることになる。
岡田は怒りに震え、ついに行動に出ることにした。しかし、それがのちの彼の人生を大きく左右することになるのだった――。
後編はこちら→『パナソニックと闘った「ハケンの男」の壮絶すぎる半生』
パナソニックと闘った「ハケンの男」の壮絶すぎる半生
年越し派遣村の「後」の真実
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/69547
藤岡 雅週刊現代記者 2019.01.01 週刊現代(gendai.ismedia)
取材ライタープロフィール
前編はこちら→『年越し派遣村から約10年…いま「ネトウヨ」と呼ばれる男の過酷人生』
□偽装請負騒動の「渦中の人」へ
リーマン・ショック後に日本企業が「派遣切りラッシュ」へと一斉に走り、派遣切りされた労働者たちが年末、日比谷公園の年越し派遣村に集ったのはいまから約10年前のことである。
今年、46歳となる岡田正雄(仮名)はいま、機械関係の仕事をしている。当時もそうだったように、いまも非正規社員である。
岡田はあのころ、パナソニックのプラズマ・ディスプレイ工場の作業を請け負う会社からパナソニックに送り込まれて、仕事をしていた。ちょうど世間が「偽装請負」騒動で揺れた時期。岡田もその渦中に巻き込まれた。
〔photo〕gettyimages
きっかけはある日、パナソニックの統括班長から「悪いようにはしないので、別の請負会社に移籍してほしい」と言われたことだった。岡田が実態を調べてみると、いま所属している請負会社の時給は1350円だったのに対し、移籍先の時給は1100円。統括班長の言葉に反し、時給が減額されることが分かった。
労組の支えを得られない非正規労働者にとってこれを拒否することは、仕事を失うことに等しかった。しかし黙って受け入れると、あまりにも自分たちの立場を貶めることになる。
ついに岡田は労働法が専門の弁護士に相談した。しかし、これが彼の人生を大きく変えることになってしまう。
「当時は懇意にしていた班長にウソをつかれたことが一番、ショックだった。僕の働き方が違法であることも明らかでした。そこで弁護士と相談の上、05年5月に大阪労働局に告発したんです」
□刻まれた深い傷
大阪労働局からパナソニックに是正指導があったのは、それから約2ヵ月後のことだった。パナソニックは偽造請負の違法状態を是正し、岡田は8月に晴れてパナソニックと直接雇用契約を結んだ。
ところが、その際にパナソニックが用意したのが隔離されたテントをおいた作業場であり、岡田はそこで製造過程でミスのあったプラズマ・ディスプレイに薄く張られたシートを竹串などを使ってひたすら剥がすという途方もない仕事を課せられたのだ。
「まぎれもない報復行為だった。それはつまり『早くやめろ』という意思表示の何物でもなかった」
人の尊厳を奪うやり方は、いまでも岡田の心に大きな傷を残している。岡田は出会った当初から、この当時の話を始めると、天をぎょろりと見上げ、唇を震わせながら話をする。それはいまでも変わらない。
当時の記憶を、鮮明な映像として脳裏によみがえらせようとしているのだろう。この岡田の怒りが、その後の彼の人生に大きな影響を与えたことは、想像に難くない。
それでも当時の岡田は、意味のない作業を黙々と続けたという。
「一日、一枚シートをはがすのがやっとでした。一枚できると班長にディスプレイを持っていった。一枚目を持っていったとき、班長は『こいつ、本当にやってるのか』という困惑の表情を浮かべていました。そして『次のパネルをはがせ』と僕に指示を出してきた。
全員が参加する朝会の出席は認められないし、社内報も僕だけ見せてもらえない。社員や他の非正規労働者とすれ違っても、もう誰も僕に声をかける人はいない。
ある日、僕が掲示板を見ていると、後ろから手が伸びてきて、その掲示板は裏返されました。相手は日本の大企業ですよ。こんないじめ、想像できますか。たぶん刑務所に入るよりもひどかったと思う」
□派遣切りの末に
それでもひたすらパネルをはがし続けた。なぜ彼は辞めなかったのか。
「確かにそうですね。でもパナソニックと僕の直接雇用契約にはわずか5ヵ月という期限が設けられていた。つまりいくら頑張ってもあと5ヵ月で、どのみち僕は契約満了でクビになることが決まっていたのです。
僕は違法な働き方を是正するように、労働局に訴えただけです。制度にのっとって『法律を守ろう』と言うと犯罪者よりもひどい制裁を受けるのが、この国の姿だった。
でもね。ここまで酷い仕打ちを受けると、やり返したくなるのが人間でしょ。あのころの僕は、闘争心しかありませんでした」
05年11月、岡田は「損害賠償や職場復帰」を求めてパナソニックを提訴し、労働運動に身を投じていく。やってみれば同じ偽装請負に悩むキヤノンや東芝などの非正規社員が全国で苦しんでいることを知った。
裁判は長期にわたった。提訴から2年半後の08年4月、大阪高裁でパナソニックの偽装請負を認める判決が出る。当時の報道によれば「脱法的な労働者供給契約として強度の違法性があり、公序良俗に反し無効」という踏み込んだ判決で、岡田の職場復帰を認めた。
しかしパナソニックはすぐさま上告し、最高裁は岡田に厳しい判断を下すことになる。「偽装請負」は認定され、隔離した空間での無意味な作業も「不法行為」と認定された。それなのに、岡田の職場復帰は認められなかった。いまからちょうど10年前の09年12月のことだった。
岡田はいまパナソニックで過ごした日々をどう振り返るのか。彼は苦笑まじりにこう答えた。
「子どものいじめより陰湿ですよね。大企業のええ大人たちがすることじゃないでしょう」
□社会運動家として過ごした10年
岡田はその後、さまざまな社会問題に取り組んでいく。日本の労働運動家、人権活動家として、韓国や、イラクに招待されたりもした。
筆者が岡田に再開したのは、2013年のこと。東日本大震災後に、反原発運動に身を投じていた岡田は、経済産業省の前に陣取った「脱原発テント」のまえで、自前の「反原発バッジ」を売り歩いていた。
この運動の最中、かつて岡田の裁判や運動を支援した左派活動家たちと、イベントをめぐって激しく対立する。岡田が借金と身銭を切って準備した反原発のロックイベントの運営を巡りトラブルになったのだ。これによって岡田は大きな経済的損失を被ってしまう。これが岡田が運動から身を引くきっかけとなった。
それからも安定した仕事は得られなかった。
岡田はパナソニックとの裁判で、全国紙にたびたび顔写真を掲載された。労働運動に理解の無い企業の人事担当者は、岡田の採用に二の足を踏むことも少なくなかった。
「僕の素性を調べるんでしょうね。内定をもらったのに、取り消されたこともありました。その担当者は『謝罪するので勘弁してほしい。どうしても雇用契約は結べない』と震えるような声で言いました。なにをビビってんのやろ、と思うんですが、大企業相手に裁判するような奴は、総会屋とかゴロツキのように思うんでしょうね」
□「ネトウヨ」と呼ばれても
アルバイトで不動産関係の仕事をしたり、警備会社で金融機関など小銭を仕分けする仕事にも就いたこともあったが、どこもひどい労働環境だった。そしていまもまだ非正規の仕事を余儀なくされている。
岡田は就職氷河期のピークに社会人となったロストジェネレーションと呼ばれる世代である。非正規で職を転々としたため、そのキャリアの断絶はいまも彼の人生に大きくのしかかる。
そんな岡田は、いまもツイッターで社会問題について盛んに発言を続けている。
「根底にあるのは社会への怒り、理不尽な仕打ちへの怒りです。いま僕が『ネトウヨ』と呼ばれているし、それを批判する人もいる。でも僕はおかしいと思うものに声を上げずにはいられない」
SNSは彼の心の支えでもあるのかもしれない。
岡田がパナソニックで仕事を始めたときは、まだ30歳だった。そこで彼が誰よりも熱心に働き、労働運動に身を投じたのには、もう一つ理由があった。パナソニックで働き始めて2ヵ月後の04年3月、ただ一人の岡田の家族である父親が大動脈瘤の破裂で突然、この世を去ったのだ。
父親はそのころ司法書士を目指しており、資格の合格ラインまであと一歩のところだった。宅建の資格をすでに持っていた岡田と、ゆくゆくは親子で司法書士事務所を開こうと話をした矢先のことだった。
父親を亡くしてからはパナソニックの仕事で一人前になることが岡田の目標となった。だから誰よりも仕事を覚えるのが早かったのだ。また「偽装請負」を岡田がたった一人で告発したのも、父親の死が影響した。
「あのとき、何人かの非正規労働者と弁護士とで話をしました。会社からにらまれることを恐れて誰もが、告発を躊躇していた。だから『僕がやりましょうか』と手を挙げたんです。僕は支える家族がいないので万が一、クビを切られても大丈夫だから」
□人並みの願い
いま働いている機械関係の仕事は「充実した楽しい仕事」だと岡田は言う。非正規とはいえようやく続けられる仕事を手に入れた安堵感がその表情には滲んでいた。
人手不足の現在、12年前と雇用環境は真逆でもある。
池袋の居酒屋でしたたかに飲んだ後、岡田は「間もなく正社員になれるかもしれない」と嬉しそうに笑った。
無名とは言え岡田は2000年代の日本社会の矛盾が生み落とした労働運動家であり、社会運動家の一人だったと言えるだろう。しかしもとより、彼の奥底にあったのは「正社員になりたい」という極々ふつうの願いに過ぎなかったのだ。
岡田の長すぎる就職活動も、そろそろ終わりとなる日が来てほしい。二人で酒を煽りながら、筆者はそう願わずにはいられなかった。