朝日 WEBRONZA
和光大学教授・ジャーナリスト、竹信三恵子
安倍政権の国家戦略特区で、解雇や労働時間規制などについての規制に例外を設ける「雇用特区」が議論を呼んでいる。労働にかかわる規制は働き手の命や暮らしを守る意味から設けられているものが多いため人権の外に置かれる働き手を生み出すという批判が少なくないが、加えて懸念されるのは、これが「日本経済再生」ではなく、むしろ経済再生への逆行を招くのではないか、という点だ。
日本では、企業が経営不振で社員を雇い切れなくなった時、手を尽くしていれば解雇できる「整理解雇の四要件」が判例などで決められている。だが、雇用特区では、入社時に結んだ労働条件に沿っていれば解雇できるという別ルールが適用されるという。入社するとき、働き手は「入れてくれれば何でもOK」の心理に駆られやすく、不利な条件でも飲んでしまいがちだ。こうした条件下で、ちょっとした過失があれば解雇できる契約が結ばれれば、会社の経営は良好なのに解雇は横行、という事態が生まれる。雇用特区が「解雇特区」と呼ばれるゆえんだ。
心配されるのは、その結果、働き手の賃金交渉力がいま以上に弱められ、企業の成長があってもその成果が働き手に回る度合いが一段と悪化することだ。
小泉政権下の2001年から2005年までに企業の利益は倍近くに増えたが、勤め人の平均年収は1割減った。背景には、非正規労働者の増加と、その労働条件の低さに足を取られた正規社員の賃金交渉力の弱まりがあった。同政権が登場する2年前の1999年、派遣労働の原則全面解禁などの労働の規制緩和が行われ、2004年には製造業派遣も解禁された。総務省の直近の調査では、いまや働き手全体の4割近く、働く女性の6割近くが非正規だ。その多くを占める有期労働者の7割が年収200万円以下(2011年厚生労働省調査)だ。有期労働者は短期雇用であるため、次の契約が更新されないことを恐れて労働条件の交渉力が極端に弱くなる。同一労働同一賃金の制度が整わない中で、正社員も、「同じ仕事を半分 の賃金で引き受ける非正規」と比べられ、賃金交渉の足を引っ張られる。それがデフレの原因のひとつともなってきた。特区での解雇ルールの緩和は、働き手の解雇への怖れを強め、働き手の交渉力を、もう一段弱めるおそれがある。
また、特区では、外国人が3割以上の事業所では、5年を超えた有期労働者に無期への転換権を認めた労働契約法の規定も、適用除外を受けられるという。この規定は、先述したような非正規労働の激増に歯止めをかけ、デフレの進行を食い止めるためのものだったはずだ。さらに、先送りが表明されたとはいえ、一定の年収を超える働き手は労働時間の規制から除外されて残業代ゼロとなるホワイトカラー・エグゼンプションも盛り込まれるとなると、事態はもっと深刻だ。残業代は、1日8時間労働を超えたらコストが高まることを通じて労働時間に歯止めをかけ、健康や、家庭や地域での生活時間を確保するためのものだ。残業代が高いと、企業は、残業させるより働き手を新しく雇った方がトクだと判断するようになり、自発 的に雇用を増やす方向にも向かうが、残業代ゼロにすれば、人は増やさず長時間使い回す方が引き合うことになってしまう。
2013年8月14日付「日本経済新聞」では、ホワイトカラー・エグゼンプションは「労働時間が長くても給料は一定」なので働き手は「効率的」に働くようになるとしている。だが、過労死の事例を見ていると、長時間労働の多くは、仕事量の極端な増加や、長時間労働を強要する会社の労務管理によるものが少なくないのである。
しかも、これらの規制緩和は、女性の働きやすさにも逆行しかねない。入社時の契約で「急に休んだり遅刻したりしたら即解雇」などという条件が盛り込まれれば、急に子どもが熱を出して休んだときや、保育園に送っていく途中で事故が起きて遅刻したときも解雇理由にされかねない。家事・育児を理由に非正規労働に回された女性たちが、5年働き続けてようやく正規への転換権を得ても、特区ではその適用除外にされうる。まして、ホワイトカラー・エグゼンプションによって1日8時間の労働時間規制からはずされたりしたら、家事との両立は一段と難しくなる。
家事や育児を抱えている労働者の弱みにつけこんで賃金を抑え込んだり解雇したりする行為を、筆者は「家事労働ハラスメント」と呼んでいるが、「解雇特区」はこうした「家事ハラ」の温床となりかねない。これでは安倍首相が国連総会で叫んだ「女性が輝く社会」など夢のまた夢だ。
確かに、これらの規制外しは特区内だけで、しかも開業5年以内の事業所に限るとされ、ホワイトカラー・エグゼンプションも、年収800万円以上など高収入者に限る案が出ている。「解雇特区」との批判の高まりに、最近では弁「護士などの高度の専門職に限るとの案まで出てきた。だが、こうした虫食い型の実施は却って怖い。多くの働き手が、「自分とは関係ないこと」として真剣な論議が妨げられ、知らぬ間に変化が進んでしまいかねないからだ。しかも、人件費削減を狙う企業が特区に集中すれば、企業誘致に血眼の多くの自治体が特区に名乗りを上げ、「労働条件の引き下げ」向けた地域間競争が始まる。
「夫に養われているから安くてもいい」として放置されたパート労働者の極端に安い賃金水準は、その後非正規労働一般にまで及び、こうした非正規労働が今や一部の世帯主も及んでいる。「専門性が高い業務なら大丈夫」と解禁された派遣労働は、いま製造業をはじめ、ほぼすべての業務にまで広がった。私たちは、またしてもその愚を繰り返すのだろうか。