竹信三恵子さん 「韓国・文在寅の「壮大な実験」を日本人が笑えないワケ」 (10/22)

韓国・文在寅の「壮大な実験」を日本人が笑えないワケ
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2019/10/22(火) 6:01配信現代ビジネス

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韓国「最賃引き上げ」は失敗だったのか
韓国の最低賃金大幅引き上げが「失敗」として話題になってきた。

 韓国では、文在寅大統領が「2020年までに最低賃金を時給1万ウォン達成」を掲げ、2017年の就任以来、最低賃金は毎年10%以上と劇的に引き上げられてきた。だがその結果、韓国の就業者の4人に1人とされる自営業者たちの生活が立ちいかなくなったという声が高まっている。

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 そんな中で、日本でも「最賃1500円を求める運動」への疑問や、企業が成長すれば賃金は増えるという「トリクルダウン効果」に回帰するかのような論調が目立ってきた。

 だが、「韓国の失敗」と笑っている場合なのだろうか。なぜ文在寅大統領は、大幅な最賃引き上げを目指したのか、その背景を考えるべきだ。

 非正規労働者の増加やグローバル化で労組の賃上げ圧力は弱まり、最賃引き上げ以外に非正規労働者の確実な賃上げが期待できなくなっているのは、日本も似ている。

 働き手の5人に2人を占める低賃金非正規の所得向上なしでは、内需拡大は危ういという日本の状況も変わっていない。「韓国の実験」は、「最賃たたき」より「最賃の外の働き手も含めた保護」の必要性を私たちに問いかけている。

文在寅が「申し訳ない」と
2017年に誕生した文在寅政権は、労働者層の支持を背景に、「企業の成長」だけに任せるのでなく、低賃金の働き手の賃金を引き上げることで内需を拡大する「所得主導成長政策」を掲げ、「2020年までに最低賃金を時給1万ウォン(約900円相当)に」を公約とした。

 これを受けて2018年には16.4%、2019年に10.9%にと二けた台の引き上げが続いた(下記グラフ参照)が、人件費負担の増加で、低賃金労働力に頼る中小・零細小売業に不満が高まり、今年7月、2020年の最低賃金は、引き上げ幅2.9%(8590ウォン)に抑制されることになった。

 文在寅大統領は「『3年以内に最低賃金1万ウォン』公約を達成できなくなったことについて、非常に残念で申し訳なく思う」と謝罪した(2019年7月15日付「東亜日報」)。

 とはいえ、最賃の大幅引き上げは、フルタイムで働く非正規の賃金労働者には効果があったとされている。

 韓国政府が今年4月に発表した「雇用形態別勤労実態調査結果」によると、2018年6月現在で、無期雇用社員が1人以上の事業所のフルタイム労働者のうち、貧困ライン(賃金を高い方から並べたときの真ん中にあたる額の3分の2未満)に満たない労働者の割合は、前年より3.3ポイント低い19.0%となり、2008年の調査開始以来、初めて20%を下回った。

「国民日報」の指摘
労働者間の賃金格差についても、300人以上の企業の正規労働者の賃金(時給3万3,232ウォン)を100としたときの300人未満の企業の正規・非正規労働者の賃金は、それぞれ56.8%(2・5%増)、41.8%(1.5%増)に改善され、また、2016年まで拡大を続けていた正規と非正規の時間当たり賃金総額の格差も縮小に転じている。

 だが、問題は、これらの改善が内需拡大に結び付いていない、という批判が出ていることだ。

 韓国紙「国民日報」(4月25日付)は、4月時点で内需のバロメーターである物価指標の上昇はゼロ台にとどまっているとし、その原因として、調査に無職や失業者が含まれず、低所得者全体への分配が改善したとは言えないことを指摘している。

 仮に最賃引き上げで働き手が解雇された場合、その窮状は反映されない、というわけだ。

 これに対し、韓国非正規労働センターのキム・ソンヒ前所長は筆者のインタビューに、「(景気にかかわる多様な要因を無視し、)最賃引き上げの否定的効果がそのように短期間にすぐに影響を与えるというのは、前例がない即刻的な政策効果を想定する小説のような想像力が及ぶ」と反論。

 今年8月以降、雇用率はむしろ回復しており、最低賃金の影響の政策時差を考慮すれば、最低賃金で失業率が高まったと判断しうる根拠もないとし、より長期で多角的な効果分析が必要と指摘する。

韓国・文在寅の「壮大な実験」を日本人が笑えないワケ
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「見えない低所得」の働き手
経済の不調がすべて最賃のせいにされるかのような空気には、確かに警戒が必要だ。

 ただ、賃金労働者数の増加は、最賃引き上げの負担を避けるため、必要な時だけ雇う細切れ賃金労働者の数を増やしたとの推測も成り立つ。また、同調査では、従業員を持たない自営業者も増えており、従業員が最賃の影響を受けない零細自営業に切り替えられたりした可能性も否定できない。

 背景にあるのが、財閥に代表される巨大企業と多数の中小零細企業に二極化した韓国企業の構造だ。

 多数を占める体力が弱い零細企業への配慮からか、従業員5人未満の企業には労働基準法の中の解雇規制条項が適用されず、これが最賃引き上げの際の解雇を容易にする。

 さらに注目すべきは、「独立業務請負人」として労働者保護の外で働き、最賃の対象にさえならない「特殊雇用労働者」と呼ばれる零細自営業だ。

 関西学院大の横田伸子教授によると、こうした「特殊雇用労働者」は、家事労働者、病院付き添い、訪問看護員、ゴルフ場キャディー、宅配業者、保険外交員、アニメーター、テレマーケット飲食料品・書籍・化粧品訪問販売員、文化芸術従事者、集金人、ダンプ・トラック運転手など多岐にわたっている。

 にもかかわらず自営業主としてさえ登録されておらず、公式統計ではつかみにくい。

 韓国非正規労働センターの推計では「特殊雇用労働者」は54万8千人、賃金労働者の6・5%にのぼる。ただ、横田教授によると、政府統計に表れた宅配業者の数だけでもすでにこの数に達しており、実態ははるかに多いという。

 とりわけ女性の「特殊雇用者」は、女性の労働が軽視されがちな中で表面化しにくく、韓国女性労組に対する横田教授の2008年のインタビューでは、「種々雑多な職種で生まれ増大し続けている」ともいう。

 このような企業の二極化構造と非正規間の格差構造が、最賃引き上げにとって「穴の開いたバケツ」になった可能性があるということだ。

 キム・サンジョ韓国大統領府政策室長も、「標準的な雇用契約の枠組みの中にいる方には肯定的な影響を及ぼした」と述べつつ、「標準的な雇用契約の枠外の人々、特に経済的実質で賃金労働者と変わらない零細自営業者や小企業に大きな負担になったという点も否定できない」と認めている。

 そのうえで、批判は「生活費用を下げ、社会セーフティネットを広げ、包容する国を目指すことがさらに必要になったという国民の命令の反映」として、最賃のさらなる引き上げと並行し、最賃の引き上げと連動する雇用安定資金、社会保険料・健康保険料の支援事業を減らして、勤労奨励税制の拡大・強化、韓国型失業扶助制度、健康保険料の保障性強化など、「枠の外」にいる人の負担を軽減する制度の強化という形で「所得主導成長政策」を続けると表明している(2019年7月15日付「ハンギョレ新聞」)。

日本の「最賃1500円引き上げ運動」の意味
このような「実験」の教訓を、日本社会は適切に受け止めているだろうか。

 「韓国の大幅最賃引き上げ失敗」論ばかりが突出し、一部では「企業の成長こそが最大の賃上げ策」といった議論も再燃し始めている。

 だが、すでに、2014年のOECD(経済協力開発機構)の報告書で、企業や富裕層が豊かになればその富が低所得層にも回ってくるという「トリクルダウン効果」は起こらなかったとされ、分配の重要性が指摘されている。

 実際、財務省が9月2日発表した法人企業統計でも、2018年度の内部留保(利益剰余金)は7年連続で過去最大を更新し、企業が稼いだお金を内部でため込む傾向は一段と強まっている。

 そんな中で、最賃アップは最後の確実な賃金底上げ策として注目されるようになった。安倍政権が、毎年3%をめどに最賃引き上げを掲げ、2月には自民党に、最低賃金額を全国一律にすることを目指す議員連盟(最賃議連)も誕生したのも、そうした経緯があったからだ。

 「最低賃金1500円運動は愚策」という議論も出回っている。だが、日本の最賃は、これまで先進国でもっとも低い水準にあり、フルタイムで働いても経済的自立が難しかった。最賃は、正社員の世帯主男性の年功賃金による「扶養」を前提に、女性や若者などの「家計補助」的な働き手に適用されるもの、と想定されてきたからだ。

 だが、年功賃金制が崩れ、非正規が5人に2人と基幹労働力化すると、働いても生活できない「ワーキングプア」(働く貧困者)が続出することになった。日本での「最賃を時給1500円に」運動は、そうした日本の構造で働き手が生活を立てるには、最低1500円は必要、という目標値を掲げ、日本社会の賃金基準の立て直しを迫るものだ。

 決して安易な理由で「時給1500円」を要求しているわけではない。

 そうした事実がようやく共有され始めたいまになって、「企業の成長」依存に逆戻りするだけでは、問題は解決しない。

韓国は「対岸の火事」ではない
日本は、韓国に比べれば大手と中小の格差が少なく、体力のある企業の中にも非正規化に走って人件費を切り下げてきた例が目立つ。このため、最賃による賃金回復効果の余地はまだ大きい。

 金沢大学の伍賀一道名誉教授が2017年の就業構造基本調査をもとに行った推計では、韓国でいう「特殊雇用労働者」のような日本の個人事業主は、建設業の一人親方などを含め200万人余とされ、同年の日本の労働力人口のざっと3%程度だ。いずれも概算で、軽々な比較は難しいものの、韓国より、まだ少ないとみられる。

 こうした状況から考えると、今の段階の日本は、韓国より最賃引き上げの「バケツの穴」が小さい構造に、まだとどまっているといえる。

 ただ、日本でも、シンクタンクの三菱UFJリサーチ&コンサルティングが財務省の法人企業統計を基に行った試算で、アベノミクスが始まって以来、金融緩和などで大手企業と中小企業の業績格差が急拡大し、経常利益の合計額の差は2015年に過去最大になったと試算するなど、経済政策による企業間格差の拡大は目立つ。

 また、健康機器メーカー「タニタ」など、社員の個人事業主化を進める動きも強まっている。最賃を上げても個人事業主化で回避されれば、内需拡大効果は上がりにくくなる。その意味で、個人事業主に労働者としての最低限の保護を広げるなどの歯止めが必要だ。

 「個人事業主」扱いで料理を宅配する「ウーバー・イーツ」で10月、配達員らの労働組合ができたのも、働き手への保護拡大の必要性を表している。

韓国に学ぶ、「最賃引き上げを生かすヒント」
まず、まともに働けば自立できる水準の最低賃金を目指しつつ、韓国のキム室長が述べるような、生活費用を引き下げることなどで「最賃の外」の低所得者も含めて実質賃金を増やす措置は、日本でも急務だ。

 韓国の実験は、対岸の火事ではない。

 韓国の最賃大幅引き上げは、良し悪しを含めて参考になる。

 日本も、「企業の成長」任せに陥ることなく、増加が予想される個人事業主や、中小零細企業に対するセーフティネットや働く上での権利などを整備しつつ、最低賃金の引き上げを実行していくべきだと主張したい。

竹信 三恵子 

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