化学物質の脅威)化学物質7万の危険いさらされる人々と「癌になっても労災が認められない」現状
https://news.yahoo.co.jp/byline/tateiwayoichiro/20200102-00157237/
立岩陽一郎 | 「インファクト」編集長
2020/1/2(木) 6:00
〔写真〕病院で検査を待つ新田徳(筆者撮影)
日本の様々な産業の現場で使われている化学物質。その数が7万種類に及び、毎年新たに1000種類が加わっているものの、その多くで危険性や有害性の確認や周知が行われていない現状がある。政府が有識者の検討会に示した文書で明かしていた。
文書は、「現在、国内で輸入、製造、使用されている化学物質は数万種類に上るが、その中には危険性や有害性が不明な物質も少なくない。こうした中で労働災害は年間450件程度で推移し、法令による規制の対象となっていない物質による労働災害も頻発している状況にある」とし、「数万種」は約7万種と推定している。
〔写真〕産業現場で化学物質が氾濫している事実に警鐘を鳴らしている政府の資料
その文書の示す現実を具体的に見るため、話を2019年11月7日の東京医科歯科大学附属病院に戻したい。
■「これは癌が再発しているということですか?」
男性が医師に問うた。男性と医師の間には、画像が置かれている。
「ええ。前回も確認できたものですが、それがはっきり大きくなっているので、これは再発したと判断できます」
画像を見る男性の顔が青ざめていくのが横にいる私でもわかる。医師は、努めてだろうと思うが、ビジネスライクに話を進める。
「手術の日程を決めましょう。早いところで、来月中だと・・・」
日程を決め、手術のための検査をこの後に受けることを決めていく。男性が自分の動揺と戦いながら医師の求めに応じて手続きを進めていることが伝わってくる。
医師の部屋を出た男性は廊下の長いすに腰を落とした。私には崩れたように見えた。
「再発ということです・・・」
そして、両手で顔を覆った。その向こうに、「泌尿器科」と書かれた札が見える。再発したのは膀胱癌だった。
男性は46歳。実名にしていないのは、本人の希望による。仮名を、新田徳としておく。
〔写真〕病院で検査を受けに行く新田
新田は4年前、つまり42歳で膀胱癌を発病して手術。その後、3か月に1度の検査を続けてきた。その検査とは尿管にカメラを入れるというものだ。説明を聞いて卒倒しそうになった。
この日はその検査を行うというので同行させてもらったが、こんな結果になるとは思わなかった。検査室から出てきてふらついていたので、それは苦痛を伴う検査が終わったからだと思っていた。しかし、検査中に画像を見ることはできる。そこで男性は、再発を確信したという。前回の検査で確認された腫瘍が大きくなっていたからだ。
医師は、再発する度に腫瘍を取り除くと言うが、それが取り除けるところにできている内は、はそれで良い。しかし膀胱の奥に腫瘍ができるとそれはできなくなる。
■「その時は死ぬしかないんです」
新田は力なく言った。
なぜ自分が膀胱癌になったのか、一つの確信を持っている。新田は、名の有る衣料品メーカーの社員だ。そのメーカーの駐在で中国に赴任し、現地で製造している製品のチェックを行う立場だった。
〔写真〕新田が務める会社
様々な機能を持ち鮮やかな色彩をアピールする最先端の衣料品には、様々な化学物質が使われている。化学物質は揮発性が有るが、それが衣服に付着したまま梱包されることは避けなければならない。男性は、製品の見た目とともに、化学物質特有の刺激臭が残っていないか確認していた。
新田が作業現場を描いた絵がある。完成した衣服を手に取って確認する。鼻を近づけて匂いをかぐため、手も鼻にも染料が付着したという。
〔写真〕作業を描いた新田の絵
そして2007年から2012年までその勤務を続けて帰国。その後、暫くして体調に異変を感じる。尿に血が混じっていたのだ。
思い出したのは、工場に大量に置かれていた容器に置かれた「CX」の文字。CX酸性という塗料や染料の総称だ。
このCX酸性には多種多様の化学物質が含まれている。新田は専門家を訪ねて調べ始めた。すると、CX酸性の中には、ベンジジンという化学物質が含まれていることがわかった。
当時、新田が尋ねた専門家の一人、堀谷昌彦は言う。
「ベンジジンは体内に取り込まれて代謝されると発癌性物質になります。既にそのメカニズムも明らかになっています」
堀谷は、大学院で化学を学び化学薬品メーカーで長く勤務。自らがそうした化学物質を製造してきた経験を持つ。
「勿論、化学物質は今の産業を支えることに不可欠です。しかし、それは注意して使わなければいけない。そして、実際には、作業員がその化学物質で健康を害するケースは少なくないんです」
長くそうした現場を見てきた堀谷は、会社を辞めて、今は化学物質の被害を無くすための取り組みを行っている。その堀谷からすれば、新田がCX酸性に含まれるベンジジンに暴露して膀胱癌になったことは、ほぼ間違いない。つまり、状況は労災、つまり労働災害だ。
ここで冒頭紹介した政府が有識者会議に示した文書に話を戻す。文書は厚生労働省化学物質対策課が作成したものだ。それによると、私たちの社会を豊かにするために作り出される様々な製品の製造過程に導入されてきた化学物質は、約70000種。このうち、その強い毒性が確認されて使用が禁止されたのは石綿(アスベスト)など8種。危険性が確認されて使用に規制がかかっているものが約700種。つまり危険性が確認されて使用に規制が有るものは、1%ほどでしかない。また、化学物質は次々に開発されており、毎年新たに導入される化学物質は1000にのぼるという。
〔写真〕大量の化学物質が事実上、放置されている状況をまとめた政府の資料
文書がにおわせている通り、会社の安全管理が徹底されているとは言えないケースは散見されている。事実上、放置されていると言って良い状況だ。
こうした中で、被害が表に出るケースも有る。
2018年2月、三星化学の従業員4人が会社を提訴している。安全配慮義務違反だ。この4人は作業場の化学物質に暴露して膀胱癌になった。堀谷らの調査もあって労災が認められた。4人は新田と状況が似ている。4人はポスターのインクを扱っていたという。更に多くの作業員が膀胱癌を発病しており、被害は広がっている。
ただ、多くは表に出ない。労災が認定されるケースは極めて稀だからだ。従業員がどのような化学物質にいつ、どこで暴露したかを明らかにするには会社の協力が不可欠だからだが、そういう会社は珍しい。
再び、新田の話に戻ろう。新田は労災申請したが、認められていない。会社側が徹底して、その事実を否定したからだ。
新田の膀胱癌を見つけた医師は、「労働環境によ」と話している。実際、40代という若さでの膀胱癌の発症は喫煙歴などが無ければ、極めて異例だ。新田は喫煙者ではない。酒もたしなむ程度だ。
大学教授として長く化学物質の健康被害を研究してきた医師の久永直見も新田が尋ねた一人だ。久永は言う。
「膀胱癌が新田さんの様な若い人がなるのは極めて珍しい。新田さんのケースは労働環境が原因と見るのが妥当でしょう」
新田は言う。
「癌になっても労災が認められないんです。癌になったのもショックですが、仕事の結果で癌になっても、それが認められないことが更にショックです」
会社は労働基準監督署に対して、そもそも新田が主張するような新製品の検査といった作業に新田は従事していなかったと主張。労働基準監督署はその会社の説明を鵜呑みにした判断を下している。
膀胱癌に発症して手術と診察、検査を繰り返す新田は既に治療費だけで100万円近く使っている。労災が認められない以上、この全ては新田個人の負担となる。新田は労災を認めなかった国の決定の取り消しを求める考えだ。新田は言う。
「個人に立証責任を負わせる今の労災のやり方では状況が厳しいのはわかっているが、納得できない。私以外の被害者を出さないためにもやれることをやりたい」
この状況は新田だけではない。今後、化学物質の脅威について更に伝えていく。政府で始まった検討会についての資料は以下でその詳細を読むことができる。
職場における化学物質の管理のあり方に関する検討会
https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_06378.html
立岩陽一郎
「インファクト」編集長
調査報道とファクトチェックを専門とする「インファクト」編集長。アメリカン大学(米ワシントンDC)フェロー。1991年一橋大学卒業。放送大学大学院修士課程修了。NHKでテヘラン特派員、社会部記者、国際放送局デスクとして主に調査報道に従事。政府が随意契約を恣意的に使っている実態を暴き随意契約原則禁止のきっかけを作ったほか、大阪の印刷会社で化学物質を原因とした胆管癌被害が発生していることをスクープ。「パナマ文書」取材に中心的に関わった後にNHKを退職。単著に「トランプ報道のフェイクとファクト」「NPOメディアが切り開くジャーナリズム」「トランプ王国の素顔」、共著に「ファクトチェックとは何か」など。