「働きたいけれども働けない者は食べてもよい」 ベーシック・インカムの本質はこれだ
https://webronza.asahi.com/politics/articles/2020012400006.html?page=1
塩原俊彦 高知大学准教授
2020年01月29日 論座
米民主党の大統領候補者を決めるための最初の党員集会(コーカス)が2020年2月3日にアイオワ州で開催される。
本当は、「ヴァーチャル・コーカス」と呼ばれる、スマートフォンなどのモバイル端末を使って、1月29日から党員集会への「ヴァーチャル参加」が可能となる仕組みの導入が同州民主党によって決まっていたのだが、結局、ハッキングの恐れといった安全保障上の理由で、2019年8月、民主党全国委員会はこれを認めなかった。2016年と同じく、小規模会場(ミニサテライト)をいくつかつくって、2月3日のコーカス参加とみなすだけになった。米国でも、新技術導入を嫌う「テクノフォビア」が蔓延しているようだ(拙稿「新官僚論 「テクノフォビア」を脱却せよ」を参照)。
この結果、インターネット・ユーザーの支持を集める、アジア系のアンドリュー・ヤンに痛手になることが懸念される。彼は最低所得保障を意味する、「ベーシック・インカム」(基礎的所得、BI)の導入を主張し、若者を中心に一定の支持を集めてきた。そこで今回はBIをめぐって論じてみたい。
〔写真〕米大統領選へ立候補の意向を表明している台湾系米国人実業家、アンドリュー・ヤン氏(中央)=2019年12月7日、米サウスカロライナ州
■世界の潮流から大きく遅れた日本
まず、BI導入に向けた世界的な動向を取り上げたい。2019年2月にフィンランドの社会問題・保健省によって公表された「2017〜2018年のBI実験 予備結果」によると、実験は2017年1月から2年間実施され、フィンランドの社会保険機関から基礎的失業支援を受け取る17万5000人のうち、BI(月560ユーロ、約634ドル)を受ける2000人とそうでない残りの5000人が区分され、前者は無条件でBIを得られる。仕事で所得を得ても減らされない。1年後、両者の労働市場での行動に大差はなかった。
前者は2017年に平均49.6日雇用されたが、後者の平均雇用期間は49.3日で、就労所得を得た人の割合は前者が43.7%、後者が42.9%で、数値に大きな違いはみられなかった(回答率は前者が31.4%、後者が20.3%)。ただ実験は2年間続くから、この結果だけではBI導入の効果を推定することは難しい。
フィンランド以外にも、カナダのオンタリオ州での実験開始(2017年4月)と4000人へのBI支払いと中断(2019年3月末)、2017年9月にスタートしたスペインでの実験(B-MINCOME)、2018年6月から2019年10月まで900人が参加するオランダでの実験などがあった(これらの比較については世界保健機関のまとめた報告書を参照)。
規模が大きいのは、2016年にケニアで始まった197の村々の2万人が毎月22ドル相当を2028年まで受け取るBI実験だ。ドイツでも、2019年3月からベルリンで250人に3年間、月416ユーロのBIを渡す実験がスタートした。
他方、米国では、わずか125人に対して毎月500ドルが18カ月間わたされる実験がカリフォルニア州のストックトン市で2019年2月から始まった。同年2月、ニューヨーク州選出のオカシオ・コルテス下院議員らが提出したグリーン・ニューディール法案には、当初、「BIプログラムのような追加措置」が盛り込まれていた。最終的には、この部分は削除されたのだが、それほど、BI導入は政治的に問題化しやすいテーマということになる。だからこそ、冒頭で紹介した民主党大統領候補の一人、ヤンは毎月1000ドルのBI導入を主張している。
日本でも2017年の衆院選で、旧希望の党がBI導入を掲げた。それ以前から、一部の政党はBIに注目していたが、いずれも人気取りのあだ花にすぎなかった。もはや実験にまでこぎつけている世界の潮流からみると、日本は大いに遅れている。
■BIの主張の背景
BI構想自体は18世紀末に出現したと言われている。このころから19世紀前半に賃金で支払いを受ける、つまり労働力を商品とする形態が広がりをみせるのであり、これに対応するなかでさまざまのBI構想が唱えられるようになる。
スイスでは2016年、ベーッシクインカムの是非を問う国民投票が行われたが、賛成23.1%で否決された=2016年6月5日、スイス・バーゼル
たとえば、フランス革命やアメリカ独立戦争にも参加したイングランドの思想家、トマス・ペインは1796年に書いた『土地配分の正義』というパンフレットで、人間は21歳になれば15ポンドを、成人として生きてゆく元手として国から給付されるべきであると提唱した。
近年のBIの議論では、「働きたいけれども働けない者は食べてもよい」という発想がある。そもそも労働ではなく仕事を求めるには、それなりの能力や学力や技能が必要だ。ゆえに、あえて働かずに学んだり、英気を養ったりすることが重要になる。強いられた労働がAIやロボットに代替されるようになれば、ますます仕事探しの重要性が理解されるようになるはずだ。だからこそ、働き方改革の大前提として、BIの導入が実現されなければならないと主張するのである。
■国家の労働観による押しつけ
ここで、国家が行なう貧民対策があくまで救済に値する人々だけを対象とし、救済に値しない人は労働規律を徹底的に植えつけるためにワークハウスと呼ばれる収容施設に隔離されるようになった事実を思い出そう。
この際、救済に値すると考えられたのは、高齢者や障害者であり、労働可能な貧民(ワーキングプア)はその怠惰を批判された。「働かざる者、食うべからず」という労働観が色濃く反映していたのである。
しかも、「劣等処遇の原則」といって、救済に値する貧民も値しない貧民も、福祉受給者は一般市民よりも劣等に処遇されるべきだとされた。ある人が貧しいのは社会の側に問題があるのではなく、本人に問題があるからだと決めつけられていたことになる。
1834年の救貧法(ヘンリー八世の治世から貧民対策の法制化がスタートし、1572年の改革により、それまで行われていた健常者貧民への鞭打ちを廃止し、教区と都市に救貧監督官を設置、1597年の救貧法制定につながった。1601年には、救貧行政を国家の所管とする改正が行われ、「エリザベス救貧法」と呼ばれた)の改正で、救済を受けるためには、懲罰的なワークハウスへの収容が義務づけられ、生活の場での救済は否定されてしまったのである。
■問われる労働観
ここで問題になるのが、過去からの伝統となっている労働観である。「働かざる者、食うべからず」という金言こそ、BIへの抵抗となっている。
考えてみると、第二次世界大戦後になって世界中に広がった福祉国家の仕組みは「働かざる者、食うべからず」という金言に沿って設計されてきた。働いている者は、賃金のなかから年金、健康保険、雇用保険などの社会保険の掛け金を支払い、高齢、病気、失業などの場合に保障を受ける。働いていない者については、働けるのに働いていない怠け者や、働けるのに働けないふりをする者から本当に働けない人を選別し、そうした者だけに生活保護などの所得保障をしてきたのである。
しかし、働きたいけれども働けない者を働いていない者から選別するのは難しい。だからこそ、「働きたいけれども働けない者は食べてもよい」とするところにBI構想が出現したのだ。
■「働かざる者、食うべからず」か
問題の本質は「働かざる者、食うべからず」という労働観にある。これは、キリスト教社会が生み出した「神話」にすぎない。新約聖書のなかに、使徒パウロがテサロニケの信徒へ宛てた手紙がある。パウロの真正書簡であるかについては議論がある「手紙2」の第三章では、つぎのような記述がある。
「あなたがたの所にいた時に、「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」と命じておいた。ところが、聞くところによると、あなたがたのうちのある者は怠惰な生活を送り、働かないで、ただいたずらに動きまわっているとのことである。こうした人々に対しては、静かに働いて自分で得たパンを食べるように、主イエス・キリストによって命じまた勧める。兄弟たちよ。あなたがたは、たゆまず良い働きをしなさい」。
この教えは純化したかたちで修道士に受け継がれる。未開のヨーロッパを開拓するための修道士は引き籠って修行する場というよりも一種の工場である修道院で労働を神への奴隷的奉仕として行ったのである。キリスト教は人間の生命を重視したから、その生命を維持するための労働が「聖なる義務」のように認識されるようになるのだ。
「Orare est laborare, laborare est orare」(オーラーレ・エスト・ラボーラーレ、ラボーラーレ・エスト・オーラーレ)、すなわち、「祈りは労働なり、労働は祈りなり」という言葉こそ、ベネディクト会のモットーであった。これこそ、「働かざる者、食うべからず」という労働観の淵源だ。
ここで大切なのは、「労働」と「仕事」は違うという点である。労働は人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力で、生命の必要物、つまり、個体の生存と同時に種の継続にも必要なものを保護・保証する領域としての私的領域にあったものと解釈すべきだ。
これに対して、仕事は人間の非自然性に対応する活動力で、生命を超えて永続する「世界」をつくる工作物をつくる活動だ。前者はAIに着実に取って代わられるだろう。そうであるならば、若者は仕事を見つけ出す努力をしなければならない。ゆえに、BIが求められているのである。