第174回 ホトトギスは卯の花の垣根で鳴いたのでしょうか

今朝の「日本経済新聞」の文化欄に歌人の馬場あき子さんが「自然の中に生きていた声」という随想を寄せています。愉しませていただいた文章の揚げ足を取るようで申し訳ないのですが、最近バーディングができずに溜まっているストレスのはけ口に、少し疑問を述べることをお許しください。
 
馬場さんは、詩歌によくでてくる鳴き声の主として、蜩(ヒグラシ)と時鳥(ホトトギス)を挙げ、「卯の花の匂ふ垣根に時鳥早やも来鳴きて」で始まる「夏は来ぬ」の歌を引いて、「時鳥も垣根で鳴かれてはかなり騒音である」と述べておられます。不思議なことに、馬場さんは、これが万葉学で知られる歌人、佐佐木信綱(1872〜1963)の作詞であることに触れていません。知りながらあえて記すまでもないと考えたのかもしれません。
 
万葉集には「霍公鳥(ほととぎす) 来(き)鳴き響(どよ)もす 卯の花の 共(とも)にや来(こ)しと 問はましものを」という歌もあります。これは初夏とともにやって来たホトトギスに卯の花と一緒に来たのかと尋ねてみたいということでしょう。注目してほしいのは、ホトトギスがどよもす(うるさいくらいに声を鳴り響かせる)鳥だとされていることです。であれば馬場さんが「時鳥も垣根で鳴かれてはかなり騒音である」と感じられたとしても、無理からぬところがあります。
 
それにしても、ホトトギスは垣根で鳴くことがあるのでしょうか。実のところ、ホトトギスは、山里では家の近くで鳴くことはあっても、スズメと違って警戒心の強い鳥ですから、人家の生け垣に留まって鳴くことはめったにないと考えられます。たとえそういうことがあるにしても、この詩を「卯の花の匂ふ垣根にホトトギスが留まって鳴いているよ」と解釈したのでは絵になりません。その理由は、この信綱の歌は、よく知られているように、鎌倉時代末期の女流歌人である永福門院の、次の歌をもとにしていると考えれば説明できます。この本歌では前後関係から、卯の花の垣根にホトトギスが来て鳴いているのでないことは明白です。
 
ほととぎす 空に声して 卯の花の 垣根もしろく 月ぞ出でぬる
 
私の「気まぐれバーディング」という休眠ブログに書いたことですが、「万葉集」には4500余首中、156首に「ほととぎす」が詠まれているそうです(153首という説もあります)。そのうち少なくとも14首は卯の花と一緒に詠み込まれています。そのいずれも、ホトトギスの初音の季節と卯の花の咲く季節の一致を歌ったもので、卯の花にホトトギスが来て鳴いている光景を詠んだものではありません。
 
万葉学者の信綱ならこうしたことは百も承知のはずです。だとすると、信綱がホトトギスは卯の花の垣根に来て鳴くこともあると思ったとは考えられません。私の暫定的、仮説的な理解をいえば、“卯の花の、匂う垣根に時鳥、早も来鳴きて、忍び音(しのびね=初音)もらす、夏は来ぬ”という歌の意味は、つぎのように解すべきです。

気がつくと垣根には卯の花が美しく咲いているではないか、
ああ今年も心待ちにしていた時鳥の初音が遠く響いてくる夏が来た。

解釈の鍵は、「忍び音もらす」の「もらすに」にあります。それは鳴き声が漏れるようにひそかに聞こえてくる様子を表しています。この解釈は、馬場さんが「時鳥は夜深く、姿も声も遠い闇の中でほのかに聞くのが詩的でちょうどよいようだ」と語っていることと符合します。それだけに、「時鳥も垣根で鳴かれてはかなり騒音である」という感想は、たとえ仮定法の表現であっても当たらないのではないでしょうか。

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