ここ2か月あまり、毎晩枕元に岩波文庫の『一茶俳句集』(丸山一彦校注)を置いて入眠剤かわりに数ページずつ読みました。自分が老いを意識するようになったせいで、一茶が老いの心境を詠んでいる句が目に留まりました。
この句集は、寛政元年、一茶27歳から、年を追って編まれています。一茶が老いを意識した句は意外に早く40代から始まります。
梅干しと皺くらべせんはつ時雨(44歳)
65歳で没した俳人にしては、早すぎる老いとも言えます。ひょっとしたらこの句は、老いの心境とは関係なく、冬が間近な初時雨のころ梅干しを食べたら顔に皺がよるほど酸っぱかった、といっているだけなのかもしれません。しかし、次に挙げる一連の句が忍びよる老いを詠んだものであることは疑いありません。ここには48歳の句も含まれています。
老いが身の値ぶみをさるゝけさの春 (48歳)
ちる花やすでにおのれも下り坂 (48歳)
かすむやら目が霞やらことしから (51歳)
すりこ木のやうな歯茎も花の春 (51歳)
老たりないつかうしろへさす団扇 (52歳)
老いけりな扇づかいの小ぜわしき (54歳)
くやしくも熟柿仲間の座につきぬ (54歳)
おとろへや花を折るにも口曲がる (55歳)
老いぬれば日の長いにも泪かな (58歳)
死下手とそしらばそしれ夕炬燵 (60歳)
ぽっくりと死ぬが上手な仏かな (64歳)
送り火や今に我等もあの通り (65歳)
どれも鋭い人間観察の句ですが、老境を嘆いた句とばかり解するのは間違いかもしれません。真に受けてはいけない句もあります。60で始まる次の二句のうち、上は60歳ではなく実は52歳のときに詠んだものです。下は60歳のときの盆踊りの句です。これは老いを嘆くというより、故郷喪失と貧乏で踊りの場に入れなかった自分を振り返った句で、一茶が「自我」の人であることをしみじみ感じさせます。
六十に二つ踏み込む夜寒かな (52歳)
六十年踊る夜もなく過ごしけり (60歳)
数は少ないながら次のような自分を元気づける句もあります。とはいえ、エイヤツの句は、落葉や枯れ枝のうら寂しい「秋の暮」のイメージからすると、老いを詠んだ句のなかに入れるべきなのかもしれません。
我が春も上々吉よ梅の花 (49歳)
おのれやれ今や五十の花の春 (50歳)
エイヤツと活きた所が秋の暮れ (51歳)
一茶は、15歳のときに故郷の信州柏原を後にして江戸に奉公に出ます。25歳から俳諧を学び始め、29歳のときに一度故郷に帰りますが、翌年から36歳まで俳諧修行の諸国歴遊の旅に出ました。39歳のとき再び帰省しますが、ほどなく父が死に、継母と遺産相続で争います。ようやく50歳になって故郷に帰って落ち着き、52歳のときに28歳の菊を妻に迎えました。彼はそのときの感慨を次のように書いています。
「五十年一日の安き日もなく、ことし春漸く妻を迎え、我身につもる老いを忘れて、凡夫の浅ましさに、初花に胡蝶の戯るゝが如く、幸あらんとねがうことのはずかしさ、あきらめがたきは業のふしぎ、おそろしくなん思ひ侍りぬ」。
最初の妻とは三男一女を設けていますが、不幸にも4人とも幼くして亡くなり、妻とも結婚9年後に死別しています。その後の2度の結婚もけっして幸せとは言えませんでした。驚くのは、一茶の日記に残っている妻との交合の記録です。井上ひさしのあるエッセイに出ていて印象に残っていますが、今すぐにはみつかりません。しかし、ネットにも関連した情報がたくさんあります。54歳のときの8月の日記には、8日から21日までのわずか13日間に、菊となんと24回もしています。
八 晴 菊女帰ル 夜五交合
九 晴 田中希杖ヨリ一通来ル、去ル五日、沓野ノ男廿二、女廿三、心中死ス
十二 晴 夜三交
十五 晴 婦夫月見 三交 留守中、木瓜(ぼけ)の指木(さしき)、何者カコレヲ抜ク
十六 晴 白飛ニ十六夜セント行クニ留守 三交
十七 晴 墓詣 夜三交
十八 晴 夜三交
廿 晴 三交
廿一 晴 牟礼雨乞 通夜大雷 隣旦飯 四交
(大場俊助「一茶性交の記録−七番日記・九番日記−より」『国文学解釈と観賞』48)
まさに「身につもる老いを忘れて」です。でも浅ましいことでも、恥ずかしいことでもありません。このきわめて人間的な営みの記録は、老いの俳句ともども素晴らしい人間賛歌です。