第289回 神戸新聞 随想第3回 あるサラリーマンの半生

神戸新聞 2015年6月8日  

                    あるサラリーマンの半生

男は満60歳の定年を2か月後に控えている。今の4割の給料で3年間再雇用されるが、退職金はその前に支給される。

彼は仕事の引き継ぎで忙しいうえに、付き合いで居酒屋に寄ったため、今日は終電。たまたま座席にあった新聞の悩み事相談欄で、パートで働く女性の質問を目にした。

「結婚2年目。夫は35歳。SEのプロジェクトリーダーのようですが、帰宅はいつも深夜。休みは月1〜2回あればいいほう。セックスもありません。いっそ別れようかと思いますが、私はわがままでしょうか」

辛口で知られる相談員の評論家氏はいう。

「毎日夜遅くまで会社に居残っているのはあなたの夫だけではありません。週60時間以上、年間300日以上働いている勤め人の男性は130万人もいます。ほとんど休まず、月80時間以上、年1000時間以上残業する男性がこれだけいるともいえます。

これは厚生労働省の労災認定基準では、過労死・過労自殺のリスクのある労働時間です。それだけではありません。これは離婚を言い渡されも仕方のない長時間労働でもあります」。

これを読んで、男は「俺は過労死せずになんとか退職できそうだ」と胸をなで下ろし、少しほっとした気分で日付変更線をまたいで家路についた。

男が玄関を開けると、妻の置き手紙があった。

「今日は私の誕生日だったのよ。もう愛想が尽きました。あなたがもらう退職金を半分頂いて、私は家を出ます」

男は混乱した頭で思う。

「一社懸命働いて家族を養ってきたのに、なぜこんなことを言われなければならないんだ」

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