朝日DIGITAL 2017年5月2日
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写真・図版:「先生の過労問題を知ってください」。通行人にビラを配って呼びかける工藤祥子さん=昨年12月、東京・霞が関(省略)
昨年12月のよく晴れた朝、東京都町田市の工藤祥子さん(50)は10年前に亡くなった夫、義男さんの墓を訪れた。墓石には「闘魂」の二文字。横浜市の中学校の保健体育教諭だった義男さんは「燃える闘魂」が口癖の熱血先生だった。
墓に手を合わせてつぶやいた。「あなたの闘魂を受け継いで、過労死ゼロのために闘います」。祥子さんは今月、「神奈川過労死等を考える家族の会」を立ち上げ、代表に就く。
「疲れた。頭が痛い」。
2007年6月、修学旅行の引率を終えた義男さんは帰宅後、すぐに布団に倒れこんだ。広島と京都をめぐる2泊3日の旅程。ホテルでは明け方近くまで生徒の部屋を見回った。
数日後、病院の待合室でくも膜下出血で倒れた。当時40歳。祥子さんと小中学生の娘2人が残された。
高校では柔道、大学ではアメリカンフットボールの選手だった。けんかなどのトラブルが絶えない教育現場で、生徒思いで頑強な義男さんは頼れる存在だった。生徒指導や学年主任、サッカー部の顧問など多くのポストを兼務した。当時の手帳が残っている。〈部の雰囲気にやる気が感じられない。でもここからが勝負。負けるな義男〉〈弱気になるな!生徒にこびるな!常に闘魂〉
朝7時台に始まる部活の朝練をみた。午後の授業が終わると、部活や職員会議に出た。祥子さんによると、夜9時過ぎの帰宅後もパソコンに向かい、プリントや会議の資料を作った。日付が変わる頃に寝る日も多かった。発症直前には、少なくとも月に100時間近い残業があった。
「熱意と能力を兼ね備えた工藤先生に仕事が集中してしまった」と元同僚は話す。亡くなって5年後の12年、公務員の労災にあたる公務災害が認められた。
大黒柱を失った家族を支えたのは、義男さんのかつての仲間や教え子たちだった。たくさんの手紙が届き、祥子さんを励ました。
サッカー部で指導を受けた堀川悌(やすし)さん(29)は大学に進学後、長女の実咲さんの家庭教師になった。
「やんちゃな僕を真っ正面から受け止めてくれたのが工藤先生だった。ご家族の力になりたかった」。
高校生だった実咲さんは当時、非行に走っていた。「どうせ頑張っても死んじゃえば終わり」。そう話す実咲さんを励まし続けた。「俺だってメチャクチャだった。絶対大丈夫」。実咲さんの心が徐々にほどけた。「堀川さんも父からこう話してもらったのかなと思うと、頑張る気になれた」。夜遊びをやめて勉強し、大学に進んだ。
堀川さんは生命保険の営業マンになった。営業カバンには「闘魂」の文字が縫い付けられたお守りを入れている。
横浜市の別の中学のサッカー部顧問だった男性(50)は、義男さんと練習試合で競い合った日々を忘れない。毎年クリスマスに、ほかの顧問仲間と一緒に義男さんの娘2人にプレゼントを贈ってきた。「お父さんの代わりにはなれないけど、喜んでほしかった」
「夫が死んで10年、私たちが生き続けられたのは周りの方々のおかげ」と祥子さん。過労死防止に取り組むのはその恩返しという。文部科学省が先週発表した調査では、公立中学の教員の約6割が過労死ラインを超えて働いていた。先生たちを救うのが急務だと思っている。(牧内昇平)
■家族は早めに動いて
〈「全国過労死を考える家族の会」の寺西笑子代表の話〉 過労死でご家族を亡くした方、ぜひ家族の会に連絡して下さい。同じ境遇の者だからこそ、話せることがあります。家族の会で励まし合い、泣き寝入りせずに労災認定を勝ち取った人もたくさんいます。
家族が働きすぎで心配な方、とにかく早く動いてください。私の夫は1996年に亡くなりました。心配しているうちに、あれよあれよという間に自死してしまいました。ずっと悔やんでいます。帰宅が遅い、元気がない、寝付きが悪くなった。変化があったらすぐ、「休めないの」と聞いて下さい。本人は働き続けるしかない、と追い込まれていることも多いです。倒れる前に、信頼できる身近な人、弁護士、労働局などに相談して下さい。
ただ、家族ができることは限られています。過労死は自己責任ではありません。企業には社員の安全を守る責任があります。国は長時間労働を許さない法制度をつくるべきです。早く過労死がなくなり、家族の会も必要なくなる日が来ることを願っています。