1月20日(月)、関西大学経済学部で私の最終講義がありました。当日までは大学時代に所属していた演劇部の公演前のような落ち着かない気分でしたが、なんとか無事終了しました。聴講者が少なくて大ホールがガラガラだったらどうしようという心配もありましたが、大学が準備してくれた500部の資料がなくなったようでほっとしました。当該時間帯の受講生の出席者は320名ほどでした。ほかは私の別の授業の学生、関大の教職員および学外の来聴者と思われます。平日の日中でしたが学外から分かっているだけでも50名を超える方々が来てくださったのはうれしいことでした。
最終講義では、「働き方から見た日本経済の半世紀――学生時代からの自分史と重ねて」というタイトルで話をしました。取り上げた五つの時期――?学生時代(1962〜66)、?関大着任の前後(70年代半ば前後)、?過労死問題に出会ったバブル経済期(80年代後半)、?株主オンブズマン時代(90年代後半)、?最近の10年(00年代後半から)――のなかで、とりわけ時間を割いたのは、バブル経済のなかで過労死が多発し、私が研究のうえでも社会運動のうえでも過労死問題にのめり込んだ1980年代後半です。こちらから当日用いたパワーポイントの資料を見ることができますので、ご参照ください。
私は本年3月末をもって関西大学を退職します。1969年10月に大阪外国語大学(現大阪大学外国語学部)で助手として教職に就いたときから数えれば、44年6か月になります。外大で教えた学生たちの多くは、すでに停年で退職しています。
関西大学経済学部に移ったのは1974年4月でした。それから数えても40年になります。この間、講義はずっと二つの講義科目を担当してきました。科目名は時期によって異なりますが、1990年代後半からは1回生中心の「政治経済学入門」と3回生中心の「応用政治経済学」の二つです。マスプロ教育といわれそうですが、二つの講義の受講者は、同じ学生が二つとも履修する割合を考慮しても、40年間では1万数千人にのぼるでしょう。ゼミナールで接した学生は、600名を優に超えます。
1980年代に二度の心臓手術した病身の私が満70歳を迎えるまで働くことができたのはありがたいことです。支えてくださった方々に感謝します。学部や大学院から巣立っていった元ゼミナール生をはじめとする卒業生のみなさんにもこの場を借りてお礼を言います。
これは二次会でも言ったことですが、私の好きな小林一茶は、59歳のときに、中風(脳卒中の後遺症)を患って床につきましたが、温泉治療の甲斐あって元気になり、次の句を詠んでいます。
ことしから丸儲(まるもうけ)ぞよ娑婆遊び
幸いにももらった命なのだから、これからは存分に人生を楽しむぞ、という感じです。今の私の心境もこれに似ています。幸いにも生きながらえて晴れて定年満期で勤めから解放されるからには、外の世界を存分に楽しみたいと思います。
追記:私の最終講義を朝日新聞と産経新聞が記事にしてくれました。こちらから読めます。
朝日記事 https://hatarakikata.net/modules/data/details.php?bid=824
産経記事 https://hatarakikata.net/modules/data/details.php?bid=825