<過労社会 働き方改革の行方> (2)残業168時間は申告の3倍



過労自殺した松本さんの勤務記録を見つめる妻。会社には定時で仕事が終わったように自己申告していたが、亡くなる5日前には「28:03」という退館データも=熊本市で
 長男の九歳の誕生日を家族で祝おうと決めていた土曜も帰宅は遅かった。「日曜の朝なら時間あるけん」。翌朝、松本弘一さん=当時(40)、仮名=はバースデーソングを歌い、妻子の手作りのケーキをかきこんで職場に向かった。十分足らずの誕生会。二〇一二年九月末のことだった。
 「(10月)9日17・30、10日17・30」…。肥後銀行(熊本市)に勤めていた松本さんのこの頃の勤務記録は、ほぼ毎日定時で仕事が終わったように自己申告では記されていた。日付が変わってからの帰宅も珍しくなかった実態とは懸け離れ、妻は「何のための自己申告なんでしょうか」と顔を曇らせる。
 松本さんはこの年の夏ごろから多忙を極め、十月十八日に本店ビルの七階から身を投げた。担当していたシステム変更の期限が迫っていた。遺書には、同僚へのおわびとともに「システムを延期してください」と書かれていた。
 翌年、熊本労働基準監督署は労災を認定。銀行が入退館の記録やパソコンの稼働時間をもとに計算した一カ月の残業時間は、最長百六十八時間で自己申告の三倍近くに上った。「銀行は本人が勝手に働いたと言いたいのでしょうが、社員の健康を考えるなら、うその時間ではなく本当の時間を把握しようとするはずです」。妻は今もわだかまりが解けない。
 銀行は松本さんの死後、自己申告をやめ、パソコンの使用記録で労働時間を把握している。同行は「労務管理を経営の最重要課題として取り組んでいる」と反省を口にする。
 厚生労働省はガイドラインで、使用者にタイムカードなど客観的な方法で労働時間を把握するよう指導している。しかし、法的な強制力はない。一五年の人事院調査では、自己申告で出退勤時間を把握している企業が最も多く、事務系社員ですら五割弱に上った。
 タイムカードから自己申告に戻すケースもある。横浜市内の運送会社は、社員が未払い残業代を請求した途端、自己申告に切り替えた。勤務時間をあいまいにして、労基署の摘発や残業代の支払いを免れようという本音がのぞく。
 新入社員の高橋まつりさん=当時(24)=が過労自殺した電通でも、過少申告によって「隠れ残業」がまん延していた。大手、中小を問わず、ずさんな労働時間の管理が過労死や長時間労働の温床になっている。
 ところが、政府の働き方改革実現会議で、労働時間の把握の議論は蚊帳の外に置かれた。委員のジャーナリスト白河桃子さんは、把握義務の法制化を会議で取り上げようと事務方に事前に伝えると、「既にガイドラインがありますから」と告げられた。結局、実行計画は「ガイドラインの徹底」という従来の対応を踏襲しただけだった。
 「残業の上限規制ができれば、ますます自己申告が広がるのでは」と懸念するのは、横浜市の社会保険労務士の鈴木康功さん(55)。懇意にしている社長から「上限ができるならタイムカードを廃止しようかな」と相談されたばかりだ。
 過労死問題を数多く扱う松丸正弁護士は、自己申告の原則禁止といった規制強化を説く。「狂った体温計で測っても適切な診察はできない。長時間労働是正でも同じだ」

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