慶應商学部卒で学習塾に就職した男性の悲哀 藤田和恵 (9/25)

慶應商学部卒で学習塾に就職した男性の悲哀
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190925-00303394-toyo-soci&p=4
2019/9/25(水) 5:20 配信 東洋経済オンライン

慶應商学部卒で学習塾に就職した男性の悲哀

高学歴でも学習塾しか職がなく、パワハラ、生活保護水準の賃金という違法に対して、なぜ抵抗しなかったのかと尋ねると、ある答えが返ってきた(筆者撮影)
現代の日本は、非正規雇用の拡大により、所得格差が急速に広がっている。そこにあるのは、いったん貧困のワナに陥ると抜け出すことが困難な「貧困強制社会」である。本連載では「ボクらの貧困」、つまり男性の貧困の個別ケースにフォーカスしてリポートしていく。
今回紹介するのは「学習塾で教室長をしています。休みは日曜日のみです。出身大学は有名私立商学部なのですが学習塾でしか職がありません」と編集部にメールをくれた、41歳の男性だ。

【写真】健康保険料、厚生年金、雇用保険料がすべて「0円」だった

 「出身大学は有名私立商学部なのですが、学習塾でしか職がありません」

 ユウジさん(仮名)が編集部に送ってくれたメールにはこう書かれていた。年齢は41歳だという。就職超氷河期真っただ中の世代である。今年6月、政府は「骨太の方針」に、この世代を対象にした就労支援計画を盛り込んだ。なんて“タイムリー”なんだろう――。

■就職氷河期世代には違いないが…

 私が早速、就職活動中の苦労や、働き始めてからの経験について尋ねようとすると、ユウジさんが少し申し訳なさそうにこう言った。

 「僕、氷河期世代じゃないんです。大学、入り直しているんで……。その後、卒業するのにも7年かかってますし。大学を出たときは、30歳を超えていました」

 埼玉県内の地方都市で生まれ育ったユウジさんは、公立の進学高に進み、3浪した後、地方の私立大学に入学。しかし、すぐにその私大を退学し、再び数年間の浪人生活を経て慶應義塾大学商学部に入り直した。ただ、浪人生活中に患ったうつ病のせいで、思うように授業に出席することができず、卒業まで時間がかかってしまったのだという。

 「もともと学校の勉強は楽しかったんです。試験前は、普通に1日15、6時間は机に向かっていたし、成績はいつも学年1桁以内。だから、(当時は)プライドもすごかったと思います。(最初の)私大に入っても、『俺は、こんなもんじゃない』という気持ちがあって……。慶應に合格したときは、すごくうれしかったです。

 でも、大学では親しい友達ができませんでした。原因ですか?  年齢のせいだと思います。病気もあって、あまり授業にも出られなかったし。試験前にノートを貸してもらえるような友達もいなくて、気がついたら、7年間在籍していました」

 さらに、不運なことに、ユウジさんが大学を卒業したのは2009年、リーマンショックの翌年だった。2000年代半ばから、一時的に売り手市場に戻っていた就職状況は、再び氷河期時代に戻ってしまった。

 ユウジさんは大手商社への就職を希望したが、ほとんどの会社で面接にさえ進むことができなかった。職種を広げたものの、連戦連敗。学内の就職相談窓口で、担当者から「あなたの年齢では、正社員の内定はもらえませんよ」と言われ、ショックを受けたという。

 「商社を希望した理由は、とくにあるわけじゃないんです。響きというか、イメージというか。同級生たちが『○○は丸紅から内定が出た』『電通に受かったよ』と話しているのを聞いて、自分もそういうところに就職するんだろうと、漠然と思っていました。世間知らずと言われるかもしれませんが、年齢がネックになるなんて、思ってもみませんでした」

 その後、周囲から「学歴にあぐらをかくな」「受験勉強なら人一倍経験しているだろう」などとアドバイスされ、ハローワークを通して、学習塾への就職を決めた。

 しかしユウジさんによると、これまで働いてきて学習塾は、いわゆる“ブラック企業”が少なくなかったという。

■学習塾では年収200万円を超えたことがない

 最初の勤務先では、「2カ月間の“仮採用”の後、正社員にします」という約束だったのに、ふたを開けてみると、アルバイトに“格下げ”された。勤務時間もフルタイムから1日4時間に減らされ、月収も約14万円から約5万円にダウン。到底、生活することができず、やむをえず退職した。

 ユウジさんは格下げの理由について「ある日、突然、上司から中学校レベルの平方根の問題を出されたんです。でも、緊張して解けなかった。普段なら余裕でできるのに……。そうしたら、『(正社員化は)様子をみましょう』と言われてしまいました」。

 さらに、その後に転職した学習塾では、上司にあたる教室長からパワハラを受けた。入塾相談に訪れた保護者からその場で契約を取れないと、「てめぇ、この野郎、何やってんだよ」「これだから、優等生は。どうせ、勉強しかしてこなかったんだろ!」と怒鳴られたという。そして、ここでも、正社員から時給800円のアルバイトへと切り替えられた。

 工場派遣や家庭教師といった仕事を挟みながら、結局、5カ所ほど学習塾を渡り歩いた。この間、年収200万円を超えたことは、ほとんどない。正社員として教室長をしていたときは、講師集めから、生徒募集、経理、シフト作成までこなしたのに、毎月の給料はたったの15万円ほどだったという。

 アルバイトへの降格に、パワハラ、生活保護水準の賃金――。確かにひどい。ひどいのだが、同時に私には疑問も残った。なぜ、ユウジさんは抵抗しないのか。パワハラはもちろん、一方的な労働条件の不利益変更は原則、違法である。なぜ、ユウジさんは労働者として、当たり前の権利を主張しないのか。

 私が最も驚いたのは、ユウジさんが現在、正社員として勤めている学習塾の「給与支払明細書」を見せてもらったときのことである。控除欄の「健康保険料」「厚生年金」「雇用保険料」が、すべて「0円」だったのだ。正社員なのに無保険状態――。違法なのではないか。私がそう指摘すると、ユウジさんはきょとんとした様子でこう答えた。

 「えっと……。ゼロが多いですが……。それが問題なんですか?  違法なんですか?」

 事業形態や従業員数などについて、ユウジさんから話を聞く限り、勤務先には社会保険の加入義務がある。これに対し、ユウジさんは「最初に、『社会保険は自分で払ってください』と言われたんです。違法とは思いませんでした」と振り返る。

 正社員なのに、社会保険がないことを、つゆほども疑問に思わなかったというのだ。国民年金は免除申請をしているというが、正確には「同居してるおふくろがやってくれているので、よくわからない」と話す。

■悔しかったけど、どうすればいいのかわからなかった

 私は改めて、仮採用=試用期間中の解雇やアルバイトへの降格は、よほどの理由がない限り認められないこと、賃金カットなどの一方的な不利益変更は法律で禁止されていること、社会保険の加入義務の条件は法律で決められていることを指摘した。そして、なぜ、違法行為に対して抵抗しないのか、と尋ねた。すると、ユウジさんはこう反論した。

 「誰も教えてくれないからですよ。こういうときはどうすればいいとか、これは違法だとか、学ぶ機会がないと……。『正社員にはできない』と言われたときも、ハローワークで紹介された会社がこんないい加減なことをするのかと、すごく腹立ったし、悔しかったけど、どうすればいいのかわからなかったんです」

 私は脱力する一方で、確かにそうかもしれないとも思った。私自身、新卒で正社員として会社に入ったけれど、当時、もし試用期間後に解雇されたとしたら、自分の権利を筋道立てて訴えることができただろうか。たぶん、そんな知識も度胸もなかった。

 パワハラに対抗できない理由について、ユウジさんは「中学時代に入っていた野球部の上下関係が厳しくて。先輩の言うことを聞かないと、金属バットで殴られるようなところでした。だから、上の言うことには絶対服従みたいな考えが刷り込まれてしまったのかもしれません」と言う。

 よくよく考えてみると、責められるべきは「抵抗、反論しないユウジさん」ではない。なんなら、能力や適性の有無も、ユウジさんが「世間知らず」かどうかも、関係ない。いちばん悪いのは、このような働かせ方をする会社であり、それを野放しにする社会である。

 政府は6月、35〜44歳の非正規雇用労働者を対象にした就労支援計画を設けた「骨太の方針」を閣議決定した。長年にわたって、非正規労働者の増大や、労働関連法の規制緩和による弊害について書き続けてきた私からしたら、言葉は悪いが、「はぁ?  今さらかよ」という感想が先に立ってしまう。

 政府はこの世代を対象に、30万人の正社員登用を目指すとしている。正社員化は大切な課題だが、一方で、より深刻な問題は、ユウジさんがさんざん経験してきたように、雇用形態に関係なく、何年働いてもワーキングプア状態から抜け出せず、さらには多くの職場で違法行為がまかり通っていることだ。もっといえば、これは世代を超えた問題でもある。
 

■“慶大卒”の肩書を原動力に

 政府がもし、現在の就労環境を本気で何とかしたいと考えるなら、働き手が労働関連法について学ぶ機会をつくることだ。労働組合のつくり方から、団結権、団体交渉権の意味までみっちりと教えるといい。これらはタブーでも、なんでもない。憲法以下、さまざまな法律で保障されていることだ。まあ、業界・経済団体は反対するだろうけど。

 「自己責任と言われたら、そうかなと思うこともあります。でも、すべてがそうだと言われると、ちょっと納得できません。実際に不況のせいで、採用される“枠”は減ったわけですし」

 そのように話すユウジさんは、学歴にこだわるあまり、大学卒業までに時間がかかったことを、長年後悔してきたという。しかし、最近は、自分の意思で努力して、手に入れた成果なのだから、誇りに思うようにしているという。だから――、とユウジさんは続けた。

 「『慶應義塾大学商学部卒業』ということは、できれば実名で書いてもらえますか」

 ユウジさんにとって、“慶大卒”は単なる学歴や過去の栄光ではなく、自分を肯定し、前へ進むための原動力なのかもしれない。ユウジさんは、先日、社会保険労務士の資格を取るための試験を受けた。合格発表は今年11月である。

本連載「ボクらは『貧困強制社会』を生きている」では生活苦でお悩みの男性の方からの情報・相談をお待ちしております(詳細は個別に取材させていただきます)。こちらのフォームにご記入ください。

藤田 和恵 :ジャーナリスト

 

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