黒田祥子さん「働き方改革」がもたらした「副作用」との向き合い方 若年層の育成が急務 (10/25)

「働き方改革」がもたらした「副作用」との向き合い方 若年層の育成が急務
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/17716
黒田祥子 (早稲田大学教育・総合科学学術院教授) Wedge REPORT 2019年10月25日

 2016年9月に始動した政府の働き方改革は、18年の改正労働基準法の成立を経て、その流れを本格化させつつある。19年4月からは改正労基法の施行により、まずは大企業に時間外労働の罰則付き上限規制が導入された。

 この法改正に先駆けて、既に多くの企業で労働時間の削減が始まっている。例えば、500人以上の事業所に勤める常用雇用で、いわゆるフルタイム男性労働者に占める60時間以上の人の割合は、13・6%(15年)から10・9%(18年)に減少している。(下図1)同様の傾向は女性においても、そして中小企業に勤める労働者にも観察されることから、日本全体で長時間労働是正の動きが始まっているといえる。

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(注)男性雇用者のうち、週の労働時間が35時間以上の人に占める60時間以上の長時間労働者の割合(出所)「労働力調査」(総務省統計局)を基に筆者作成 写真を拡大

 また、筆者がRIETI(経済産業研究所)で行った調査でも、法施行以前の18年時点で、働き方改革の施策として約7割の企業が業務効率化を、約6割が残業抑制を導入していることが明らかになっている。

 こうした長時間労働の是正は、これまで就労を希望しつつも、さまざまな事情から長時間労働では就労することが難しかった多様な労働力が活用されることにつながる。また、25年には生産年齢人口のうち、40歳以上の割合が6割になる。健康管理上の問題からも、長時間労働を前提とした働き方を持続することは困難だ。一連の改革は、これからの社会に即した新しい働き方に変化していくために必要なプロセスといえる。

 ただし、今後はこうした働き方改革により、意図せざる「副作用」が生じる可能性についても注意をしていく必要がある。

 副作用の一つは人的資本投資の減少だ。これまで、多くの日本企業では時間をかけて職場で人材育成(On the Job Training、OJT)を行うことで労働者の人的資本の形成を促してきたといわれている。若手にはあえて難しい仕事に挑戦させ、試行錯誤を通じて学びの機会を与え、それに対して上司や先輩がフィードバックをするといったスタイルがその典型といえる。現在においても、厚生労働省の「能力開発基本調査」(18年)によれば、重視する教育訓練について、「OJTを重視する」またはそれに近いとする企業は正社員・非正社員ともに70%を超える。

 しかし、こうした時間をかけたOJTがこれまで可能となってきたのは、職場で長時間労働が許容されてきたことが背景にある。既に多くの職場では、労働時間削減のために早帰りが励行され、職場における時間的余裕がなくなってきている。企業による従業員一人当たりのOFF−JT投資額もこの20年間で趨勢的に減少してきていることを示す研究結果もある。労働者に対する教育訓練の機会が減少し、将来職場の中核を担う現在の若年層の人的資本形成が損なわれることが危惧される。

余暇があっても増えぬ自己研鑽

 このような状況下でも、増えた余暇時間を使って、労働者が自ら、仕事に役立てるための勉強や技術・資格の取得など、いわゆる「自己研鑽」を行えば人的資本形成は維持できる。

 しかし、前出のRIETIのプロジェクトで行った筆者らの研究からは、1年間に何らかの自己研鑽を行ったと答えたフルタイム労働者の割合は41・3%(06年)から34・5%(16年)へと、この10年で大幅に減少していることが分かった。

 特に大きく減少しているのが就業時間外の職場における自己研鑽の実施率だ。残業抑制によって職場に残れなくなったことで、労働者の教育機会が減少したといえる。もちろん、職場での教育訓練の時間が減少したとしても、その分、職場外での研鑽の時間が増えればよい。実際、分析では職場での残業手続きが厳しくなった人ほど自己研鑽の時間を増やしている傾向は僅かには認められた。

 しかし、その時間の増分は年間5時間未満程度の人が圧倒的に多く、職場の教育訓練投資の減少分を補うほどではないことも分かった。また、職場外での自己研鑽を増やしているのは相対的に年齢が高い40歳以上の層で、40歳未満の若年層は自己研鑽に時間を増やしていないこともデータから明らかになった。

しわ寄せを受けるマネージャー層

 長時間労働削減のもう一つの副作用が、マネージャー層への「しわ寄せ」だ。週労働時間が35時間以上の人に占める60時間以上の人の割合を年齢層別にみると、02年には30〜39歳が26%と突出して多かったものの、18年には40〜49歳が16・1%と最も多くなっている。(下図2)

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(注)週の労働時間が35時間以上の人に占める60時間以上の男性雇用者の割合
(出所)「労働力調査」(総務省統計局)を基に筆者作成 写真を拡大

 40代は各企業でマネージャーを務めている年齢層である。労働時間管理が厳格化している中、割増賃金が適用されない「管理監督者」には、いわゆる「プレイングマネージャー」として業務のしわ寄せが起こっていると考えられる。こうしたマネージャー層の心身の健康の確保も大きな課題である。

 こうした状況下で、企業は今後どのように労働時間削減と向き合い、付加価値の向上をはかっていけばよいのか。

 まずは、今後も職場での育成、人的資本投資が生産性向上のために不可欠であることを認識する必要がある。若年層の中には、十分な教育訓練投資を受けることができていないことに危機感を抱いている人も多いはずだ。しかし、行動経済学の知見からも明らかにされているように、人間には、遠い将来のことを大きく割り引いてしまい、今の楽しみを優先してしまうという認知の歪みがある。危機感を持っていても余暇時間を自らの人的資本形成に費やすことができない若年層の育成には、職場での教育投資が引き続き重要だ。

 ただし、長時間労働を前提とした従来の教育訓練投資のスタイルは変えていかざるをえない。今後は80%程度のクオリティーで済ませても良い仕事と、120%のクオリティーまで追求すべき重要な仕事とをうまく判別し、業務内容にメリハリをつけながら若手を育成していくことが求められる。

 余裕がない企業で働く労働者には十分な教育機会が与えられず、若年層の間で人的資本の格差が拡大していく可能性も懸念される。今後は企業単位でなく社会全体での教育投資を行っていくことも重要だ。政府による副業やリカレント教育の推進に加えて、学校教育の在り方も抜本的に考え直していく必要があるだろう。

 高等教育機関は、教養を深める場であると同時に、仕事に不可欠なスキルを学ぶ場を提供することも求められる時代になってきている。企業には、労働者が必要なタイミングに応じて、一時的に仕事を中断し、学びの場に戻り勉強に専念することができるような機会を許容する体制の構築や学びへのインセンティブを与えることも望まれる。

 働き方改革は生産性向上とセットでうたわれることが多く、現在多くの現場では生産性の分母であるインプット(労働時間)を削減することに注力している。短期的には労働時間の削減により時間当たりの効率性は増すかもしれないが、重要なのは目先の生産性向上ではなく、持続的な経済成長である。労働時間の削減に注力するあまり、日本の中長期的な生産性向上が損なわれないよう、注意する必要がある。

 

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