東京新聞 2014年11月1日
「家族で豊かに暮らせる労働環境づくりを求めていきたい」と話す中野さん=神奈川県藤沢市で(写真省略)
図版:働く人の死亡をめぐるデータの差(省略)
過労死の防止を国の責務と明記し、実態調査や対策のための財源を措置すると定めた過労死等防止対策推進法が一日、施行された。一九八八年に中学教諭の夫宏之さん=当時(52)=をくも膜下出血で亡くした神奈川県藤沢市の中野淑子(よしこ)さん(78)は、労使の代表らが対策の骨子を話し合う国の協議会に、遺族として加わる予定だ。「働く人の命を大切にする労働環境をつくるため、立場を超えて協力していきたい」と話している。 (皆川剛)
今年五月、立法の必要性を話し合う国会の委員会に、中野さんの姿があった。同僚を気遣い、膨大な仕事を引き受けて亡くなった宏之さんの遺影を手帳に忍ばせ、議論を見守った。
宏之さんは、千葉県船橋市の中学校で勤務中に倒れた。進路指導に加え、校務主任として校舎の修繕など十六の業務を一人で担当。「クラスを担任する先生はなるべく生徒に関わるべきだ。事務作業は僕がやる」と話し、毎日大量の資料を家に持ち帰った。亡くなる前一カ月間の労働時間は二百九十八時間に上った。
労災申請の過程で、校長は「命令していない。中野先生が勝手にやった」と釈明した。
倒れる直前、「頭が割れるように痛い」と更衣室に向かう宏之さんの姿を同僚が見ていた。中野さんは「職場の誰にも余裕がなく、『休んだら』と気遣うよりも仕事をこなすことで精いっぱいだった」と感じている。
過労死という言葉が知られるようになって二十六年。官民挙げての対策が本格化するが、働き方の実態は変わっていない。
経済協力開発機構(OECD)が六月に公表した調査では、日本の教員は週に平均五十四時間働き、三十三カ国・地域の平均の三十八時間を大幅に上回った。課外活動や事務作業の負担が特に多い。
過労死問題が社会に広がるのと同じ年月、遺族の支援や行政への陳情を続けてきた中野さん。「大切な子どもたちと向き合うため、まず教員自身が自分を大切にしてほしい」と話し、一人でも多くの人に関心を持ってほしいと願っている。
◆データなく実態把握課題
過労死等防止対策推進法は、具体的な取り組みとして相談体制の整備など4点を定める。ただ、過労死や過労自殺に追い込まれた人数をまとめた正確なデータは国内に存在せず、まずは実態解明が焦点となる。
年間に何人が過労で亡くなっているのか。それをつかむ手がかりは、脳・心臓疾患で死亡し、精神障害で自ら命を絶った人の労災認定件数だ。しかし、厚生労働省が網羅的に実施する人口動態調査とは、大きな開きがある=表。
協議会に参加する予定の森岡孝二・関西大名誉教授(企業社会論)は「企業や組織との和解や泣き寝入りなどで、労災申請に至らないケースが相当数ある。労災認定の背後に、少なくとも10倍の埋もれた過労死や過労自殺があるとみている」と話す。
公務員でも、労災認定数と統計の差が目立つ。例えば教員の過労自殺では、2012年の労災認定は1件だったのに対し、警察庁の同年の統計では48人が勤務問題を理由に自ら命を絶っている。
労災を扱う組織が三つに分かれ、予防を主眼に置いた統計が取られていないことが、実態把握を難しくしている。民間企業の従業員は厚生労働省が、国家公務員は人事院が、中野さんの例を含む地方公務員は地方公務員災害補償基金が労災事務を担当。公務員の死亡例では、死亡者の労働時間や業務の負荷量などは分からない。
森岡教授は「現状認識いかんによって、対策の流れも左右される」と指摘。データの一元的な収集と分析を提言する。法は、労働基準法の対象でない経営者や個人事業主も調査対象に含めることにしており、幅広い職業での働き方の全容を明らかにすることが重要となる。
<過労死と過労自殺> 過労死等防止対策推進法は「業務の過重な負荷が原因の脳・心臓疾患による死亡、業務の強い心理的負荷が原因の精神障害による自殺」と定義。26年前の1988年、弁護士らが全国で電話相談を始め、米紙「シカゴ・トリビューン」が「日本人は仕事に生き、仕事に死ぬ」との見出しで報じ、社会問題として広く認識されるようになった。