『月刊社労士』2012年12月号 「定点観測」
まともな働き方を実現するために
関西大学経済学部教授 森岡孝二
1 劣悪な労働条件が社員の命を奪う
最近「ブラック企業」という言葉をよく耳にする。労働条件があまりに劣悪で就職活動をしている学生には要注意という意味だろうが、なかには 基本給+残業代を「初任給」とし、長時間残業を給与体系に組み込んでいた会社もある。
その一例は、一部上場企業の大庄グループが経営している居酒屋チェーン「日本海庄や」である。その大津市石山店で働いていた新卒社員の吹上元康さんは、ちょうど入社4ヵ月後の2007年8月1日未明に自宅で心臓性突然死により亡くなった。
彼の死亡前3カ月の残業時間は358時間であった。彼の死後、労災が認められてから、両親は、会社の責任だけでなく経営者の責任をも追及して、京都地方裁判所に民事訴訟を起こした。
2010年5月25日、京都地裁は、「労働時間への配慮が認められず、社員の生命・健康を損なわないよう配慮すべき義務を怠った」として、会社と社長ら役員4人に計8000万円近くの賠償を命じた。 会社が控訴したために、大阪高裁に持ち込まれたが、高裁は地裁判決以上に厳しく会社と経営者の責任を咎め、次のような判断を示した(現在は会社が上告し最高裁で争われている)。
「責任感のある誠実な経営者であれば自社の労働者の至高の法益である生命・健康を損なうことがないような体制を構築し、長時間勤務による過重労働を抑制する措置を採る義務があることは自明であり、この点の義務懈怠によって不幸にも労働者が死に至った場合においては悪意又は重過失が認められるのはやむを得ないところである。なお、不法行為責任についても同断である」。
同社の当時のホームページの採用情報は、営業職の初任給について、「基本給:12万8700円、役割給:6万9900円、合計19万8600円」と表示していた。これを見ると初任給は19万8500円と読める。ところが元康さんが入社後の研修で知ったのは、実際には初任給は12万3200円で、1ヵ月80時間残業をした場合に7万1300円の残業手当が付き、合計19万4500円が給与として支払われるということであった。
2 過剰な長時間労働が蔓延する労働市場
この裁判で、大庄は自己弁明のために大阪高裁に三六協定について同業他社比較資料を提出した。それによると、ワタミフードサービスは月120時間・年950時間、モンタボーを経営しているスイートスタイルは月135時間・年1080時間である。大庄自体は、三六協定の特別条項における時間外・休日労働の延長時間を月100時間・年750時間としている。
よく利用される労働時間統計に、厚労省「毎月勤労統計調査」(「毎勤」)と総務省「労働力調査」(「労調」)がある。「毎勤」は事業所の賃金台帳に記載された労働時間を集計しているために、賃金不払残業を含んでいない。近年では女性にかぎらずパートタイム労働者が急増してきたために、「毎勤」の男女計の1人当たり年間労働時間は、1800時間を切るまでに減少してきた。
これに対して、「労調」は、労働者個々人が早出・居残りを含め実際に就業した時間を集計しているために、実働時間をより正確に反映していると考えられる。「労調」でも平均労働時間の顕著な減少傾向は認められるが、それはフルタイム労働者の労働時間の減少を意味しない。「労調」の2010年平均結果によると、週60時間以上労働(月80時間以上残業)する「過労死予備軍」は雇用労働者で508万人に上る。
総務省「社会生活基本調査」は、政府統計のなかでは例外的に、正社員・正職員の労働時間を示している。2011年の同調査によると、男性正社員の週平均労働時間は52時間、年間ベースでは約2700時間であった。これは男性正社員は1950年代後半とほとんど変わらないほど長時間働いていることを意味する。
労働時間はほとんど変わらなくても、今では仕事の精神的ストレスが格段に高まっている。その背景には近年におけるグローバル化、情報化、サービス経済化、非正規化、金融化などの流れがある。情報化でいえば、インターネット、パソコン、携帯電話、Eメールなどの新しい情報通信技術が働き方を大きく変えてきた。仕事のスピードが速まり、商品の種類が増え、研究開発や納期や取引における時間ベースの競争も強まってきた。また、家にいても旅先でも、仕事がどこまでも追いかけてくる状態が生み出されてきた。こうした変化は、経済活動の24時間化と相まって、仕事に起因する精神的ストレスを高めずにはおかない。
最近は30代、20代の若い労働者の過労自殺が増えている。この背景には、情報化にともなうジョブ・ストレスのほかに、正社員が削減され新卒採用が抑制されてきたなかで、職場の締め付けが強まり、労働者は少ない人員で以前よりもっと働かされるようになり、上司も上からの圧力で余裕がなくなっているなかで、職場のいじめ・嫌がらせ・パワハラが拡がっているという事情がある。
労働基準法は、週40時間・1日8時間を超えて労働させてはならないと定めている。しかし、この規制は、まともな働き方の最低基準であるにもかかわらず、労働現場においては、過重な長時間労働が蔓延している。労働者は、いくら労働条件が厳しくても、使用者にその改善を申し出るのは容易ではない。また、個別の企業が労働条件を改善しようとしても、厳しい企業間競争とグローバル経済のなかで、自社だけの改善を図るのは難しい。
3 過労死防止基本法の制定を
日本においてこういう状況にストップをかけるには、過重労働の解消と過労死・過労自殺の実態把握および防止を目的に、国や自治体と事業者が守るべき責務を定めた法律を制定することが急がれる。そこで2011年11月に「全国過労死を考える家族の会」と「過労死弁護団全国連絡会議」が中心になって、過労死防止法制定実行委員会(略称「ストップ過労死実行委員会」)が結成された。
前年の準備段階を含めると、これまでに衆議院議員会館を会場に5回の院内集会が開催され、毎回200〜300名の参加者があり、厚生労働委員会を中心に数十名の与野党議員から賛同のご挨拶をいただいてきた。100万人署名にも取り組み、2012年11月中旬現在、34万筆の署名が集まっている。
過労死をなくすことはすべての労働者の願いである。この一点では、従業員の健康問題に苦慮している経営者の理解をえることもできる。そういう幅広い合意が可能な基本法であれば、労働基準法の大幅な改正が困難な状況のもとでも、国会において議員立法や内閣提出法案として成立させることも可能である。
日本には現在、男女共同参画社会基本法、食品安全基本法、少子化社会対策基本法、食育基本法、住生活基本法、自殺対策基本法、がん対策基本法、肝炎対策基本法、東日本大震災復興基本法、スポーツ基本法など約40本の基本法があるが、労働分野の基本法は一本もない。それだけに過労死防止基本法の制定を求める声は高く、その期待も大きい。