朝日新聞 2013年11月8日
特定秘密保護法案は、廃案にするべきだ。
政府は、安全保障の観点から必要な仕組みだと主張する。日本の安全のためであり、人々が安心できる社会のためというわけだ。
だが、そうだろうか。この法案が通れば、むしろ社会に安心より不安の影を広げることになるだろう。
最大の問題は「秘密についての秘密」だ。この法案によると、政府がいったいどんな情報を秘密にしているのかも秘密になる。
「特定」とうたいながら、法案は秘密にする情報をきちんと「特定」していない。あいまいだ。しかも、時を経ても明らかにならない恐れが強い。
情報を持っている人と知ろうとする人にとって、どこからが秘密でどこからがそうではないのか、わかりにくい。やりとりをすれば法に触れるかもしれないという不安。情報交換で成り立つビジネスや研究、市民活動などが、どこからか監視されているのではという不安。
「秘密についての秘密」という仕掛けがあれば、秘密の領域はどんどん自己増殖し、社会に不安が広がる。
ネット時代、強者が入手しようと思えばできる情報量は途方もない規模になっている。その一端は、米政府による盗聴問題でかいま見えた。他国の要人の携帯電話を盗聴していただけではなく、欧州では市民のメールや電話を1カ月に数千万規模で傍受したといわれる。日本も監視対象だったとされる。
それは、強国とそうではない国、政治権力者と市民との間の情報格差が幾何級数的に広がる時代になったことを示唆する。法案はそうした格差の拡大に拍車をかけるばかりだろう。しかも対抗するために欠かせない情報公開の仕組みは、まったく不完全なままだ。
かつて情報統制が行きわたった独裁政権の東欧やアジアの国を取材するたびに感じたことがある。こうした国々の国民は、政権に抵抗しようとすると弾圧されていただけではない。日々の暮らしも、何が問題にされるかわからない不安と、だれが味方で敵かわからないという相互不信でよどんでいた。
日本にそんな空気を入り込ませないためにも、この法案は通すべきではない。