河合薫さん 「生かすも殺すも俺次第」フリーランス礼賛社会の光と陰

「生かすも殺すも俺次第」フリーランス礼賛社会の光と陰
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190918-42301665-business-soci
9/18(水) 6:00配信 日経ビジネス

「生かすも殺すも俺次第」フリーランス礼賛社会の光と陰
文/河合薫

 今回は「自由と幻想」について考えてみようと思う。
・「殴られたり、蹴られたりされた。翌日は病院に行き会社を休んだ」(30代男性・映像製作技術者)
・「不当契約の強要、払い渋りにあった」(40代女性・編集者)
・「枕営業を要求された。応じなかったら悪い噂を流されたり、仕事の邪魔をされたりした」(30代女性・声優)
・「会食と称して食事を強要された。手を握る。体を触る。キスの強要もあった」(50代女性・コピーライター)
・「妊娠を告げたら仕事を与えないと言われ、仕事を切られた」(40代女性・編集者)Etc.etc……。

【関連画像】「フリーランス、かっこいい!」的イメージが広がったことに私は懸念を抱いている。(写真:shutterstock)

 これはフリーランスで働く人たちを対象とした調査に寄せられたコメントの一部である(インターネット調査で1218人から回答)。

 調査を実施した一般社団法人プロフェッショナル&パラレルキャリア・フリーランス協会などによれば、フリーランスで働く人の61.6%がパワハラ、36.6%がセクハラを経験。具体的には、「脅迫や名誉毀損などの精神的な攻撃」が59.4%と最も多く、「過大な要求」(42.4%)、「経済的な嫌がらせ」(39.1%)、「身体的な攻撃」(21.8%)など(複数回答)で、ハラスメントをされても「夢のため」と我慢してしまう被害者も少なくなかったという。

 ……なんだかなぁ。パワハラやセクハラされている状況が、リアルにイメージできてしまうだけに胸がつまる。

●労働法で守られないフリーランス

「てめぇ、こんなこともできないんなら死んでしまえ!」

「おまえの代わりなんていくらでもいるんだよ!」と恫喝(どうかつ)され、おびえるフリーランスを目の前で見たこともある。

 そもそもフリーランスは、発注先と直接契約を結ぶので労働基準法の適用外。また、来年4月から適用されるパワハラの防止策を義務づける関連法でも、原則フリーランスは含まれていない。

 もちろん法律さえ作れば解決するというものではないけど、直接契約を結ぶフリーランスは「何をやっても許される」と勘違いする“大ばか野郎”のターゲットになりがちである。「おまえを生かすも殺すも俺(私)次第だぞ!」などと面と向かって言われても、生活が懸かっているフリーランスは「ノー」と言えなくなってしまうのだ。

 ちなみにILO(国際労働機関)が6月に採択し、日本も批准した「仕事の世界における暴力と嫌がらせの撤廃に関する条約」では、労働者に加えて、ボランティア、求職者、インターンや見習い実習生なども保護の対象である。この法律では「仕事の世界における暴力と嫌がらせ」を、「1回限りの出来事か繰り返されるものかを問わず、心身に対する危害あるいは性的・経済的に危害を与えることを目的とするか、そのような危害に帰する、あるいは帰する可能性が高い、一連の許容できない行動様式および行為またはその脅威(性差に基づく暴力と嫌がらせを含む)」と定義している。

 そもそも一昨年くらいから、やたらと「フリーランス」という言葉が使われ、あたかも「フリーランス、かっこいい!」的イメージが広がったことに私は懸念を抱いている。

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この背景にあるのが、何度かこのコラムでも紹介している「『働き方の未来2035:一人ひとりが輝くために』懇談会 報告書」だ。・「2035年の企業は、ミッションや目的が明確なプロジェクトの塊となる」・「プロジェクト期間が終了すれば、別の企業に所属する形になる」・「一日のうちに働く時間を自由に選択するため、フルタイマーではないパートタイマーの分類も意味がないものになる」・「企業に所属する期間の長短や雇用保障の有無等によって『正社員』や『非正規社員』の区分は意味を持たない」・「1つの会社に頼り切る必要もなくなるため、不当な働き方や報酬の押し付けを減らせる」などなど。

 自立した個人、多様な価値観、自由に働く社会、独立して活動する個人、自立した個人が自律的に多様なスタイルで、といった具合に、報告書には「自立」と「自由」という言葉が脅迫的なまでに使われていて、読み終えたあとに“食あたり”ならぬ“自立あたり”に襲われるほど。

 最新技術を最大限に生かせば、「個」を生かした「幸せな働き方」が担保できるとするこの報告書は、一言でいえば「会社員消滅宣言書」だ。

●「フリーター」もかつては自由を象徴するワードだった

 政府にとってフリーランスという言葉は、「自由な働き方」「自立した個人」を印象付ける便利なワードなのだ。

 その流れに拍車をかけたのが、フリーランスで成功している人たちだ。彼らはフリーランスのリスクを語るより「自分のやりたいことをやるにはフリーランス最高!」と安易にフリーランスを推奨した。

 かつて「フリーター」という言葉に憧れ、「夢を追う若者」を量産したときと同じだ。

 それまでは「定職に就かない」あるいは「無職」と呼ばれていた人たちが、「フリーター」というカタカナ用語によって、「自由を求める人」の象徴になった。

 毎朝、“痛勤電車”に乗り込み、思いつきで物言う上司に堪え、理不尽のるつぼに悶える会社員と自分は違う。上司にペコペコしてるなんてかっこ悪い。会社の歯車になってどうする?

 自分らしい人生を生きる自由な存在としての「フリーター」は、サラリーマン=会社員からの解放を願う若者を魅了したのだ。

 やがてフリーターがワーキングプアを象徴する言葉に変わると、ノマドだの、ブロガーだのと、新しいカタカナな言葉が生まれ……。実態はフリーターと何ら変わらないのに、今度は「フリーランス」がさまざまな思惑を満たすワードとして、現在使われている。

 厚労省はフリーランスの労働者を「発注者から委託を受け、主に個人で仕事をして報酬を得る者」と位置付け「雇用類似の働き方」と呼んでいるが、明確な定義はない。

 そんな中、内閣府は7月、国内の就業者のうちフリーランスが306万人から341万人程度とする推計を公表したと報じられた。これは国内の就業者全体の約5%を占める。

 341万人程度のうち、本業がフリーランスの労働者が228万人、副業が112万人で、就業者全体における本業がフリーランスの人の割合は3%程度。

 報道によれば「政府は多様で柔軟な働き方を後押ししており、フリーランスの実態を把握することで今後の政策に役立てる」と考えているらしい。

 明確な定義もないのに推計とは「????」って感じなのだし、3%という数字が多いのかどうかは皆目見当がつかないのだが、私の周りにはフリーランスが山のようにいるし、新聞各紙には「米国の6.9%に比べると半分以下にとどまる(本業のフリーランス)」という文言が書かれていたので、最低でもこの水準を政府は今後目指すということなのだろう。

●フリーランスは組織の出入り業者にすぎない

 念のため断っておくが、私は「フリーランス」という働き方を否定的に捉えているわけではないし、フリーでやりたい人はやればいいと思う。だが、フリーで働くことのリスクを、もっときちんと伝えるべきだと考えている。

 個人的な話で申し訳ないけど、私はかれこれ20年フリーランスで仕事をしているので、組織に属さないで働くことのリスクを嫌というほど味わった。

 所詮、フリーランスは会社という組織の出入り業者でしかないわけで。「これでおしまい」と言われれば、抵抗するすべもなく「はい」と引き下がるしかない。組織外の人間に対して「会社員」が「会社員の人格」を表出させたときの怖さも、これまで何度も経験した。

 前日まで「河合さん、最高っす!」と言っていた人が、会社員という立場に立った途端、全くの別人になる。そのギャップに、私は何度も震撼(しんかん)し、翻弄されてきた。

 仕事がなければ食えないし、あればあったで「1人ブラック企業」状態になる。目の前の仕事が次の仕事の営業なので、常に200%を目指してがんばるしかない。かといって病気になれば、また食えなくなるので、ギリギリの状態で健康にも留意し、それでも壊れる体を必死で仕事に支障がないように全力で保護しなければならない。

 ちまたには「フリーランスで年収〇〇円稼ぐ!」といったコラムがあちこちに散見されるが、「稼ぐ」ことと「稼ぎ続ける」ことは全く別。食い続けるには常に自分が成長し、変化していかなきゃ駄目。おカネという有形の資産を得るには、そのカネを得るだけの無形の資産への投資が絶対条件になる。

 自分が選ばれる人になるために仕事の質を上げるしかないのだが、これまた困ったことに「ここまで上げればオッケー!」というゴールはどこにも引かれてないので、食い続けるためには常に学び磨き続けるしかない。当然ながら「自己投資」するためには、カネも時間もかかる。

 つまるところ、組織外の人間に指定席はなく、それが用意されているのは一部の天才だけ。普通の能力しかない私は、きょう、絶好調でたくさん稼げても、あすには突然稼ぎがなくなるという憂き目に、何度も遭遇した。 通帳とにらめっこする日々と、空白が目立つスケジュール帳に不安が募る日々は、何度でも繰り返されるのである。

●フリーランスの「自由」に必要不可欠な要素

 フリーで20年生きてきて繰り返し学んだのは、「1円を稼ぐことの難しさ」といっても過言ではない。

 フリーランスは確かに自由だが、その自由には仕事がない自由、体を壊す自由も含まれている。

 自己管理し、自己投資し、自己プロデュースし、そのすべてが自己責任の上に成り立っていて、それに耐えられるだけの「開き直り」も必要不可欠だ。

 何が何でも食っていってやるという覚悟がなきゃ、フリーでやっていくのは無理。雇ってもらえるかどうかはさておき、コンビニの店員さんだろうと、スーパーのレジ打ちだろうとやって、どうにかしてやる!という気合が必要なのだ。

……気合。うん、根性ではなく、気合だ!

 先に挙げた報告書も含め、「会社員じゃない=自由」「会社と距離をとる=新しい」といった風潮がこの数年広まっているけど、会社という組織の外に出ると組織の中にいるときには気づかなかった「会社員」ならではのいい面が見えるものだ。

 会社を英語で言うときには、COMPANY(カンパニー)となるが、COMPANYは、「共に(COM)パン(Pains)を食べる仲間(Y)」ってこと。会社は「(食事など)何か一緒に行動する集団」である。会社には仲間と食事(給料)が存在するため、会社員は会社員が思う以上に「会社」という存在に守られている。

 そもそも会社は入社したてのひよっこにも、「生活できるだけの賃金」をくれる。がんばって成果を上げれば給料を上げてくれたり、ワンランク上のタスクにチャレンジさせてくれたりすることだってある。

 会社が自己啓発の機会を準備してくれることもあるし、普通だったら会えない人と会える機会を与えてくれることもある。

●会社という環境がパフォーマンスを支えていた例も

 仕事の合間に仲間たちとするたわいもない会話に救われることもあるし、自分の失敗を上司が尻拭いしてくれることだってある。

 それだけではない。「会社」というコミュニティで同僚と共にする時間そのものが、自分のパフォーマンスを引き上げてくれるのだ。

 ハーバード・ビジネススクールのボリス・グロイズバーグらが、ウォール街の投資銀行で働く1000人以上のアナリストを対象にした調査で、個人のパフォーマンスは個人の能力ではなく、「同僚との関係性」に支えられていることが分かった。

 職場のメンバー同士が信頼し、お互い敬意を払っている環境で働いている時には、成績が極めて良く、職場の“スーパースター”だった人が、その腕を買われ、転職した途端、星の輝きは瞬く間に消え“フツーの人”に成り下がる。私たちは知識や能力は自分の力だと信じているけど、実際には他者との関係性が深く関連しているのだ。

 共に過ごし、相互依存関係を構築し、重要な情報やスキルを共有し、互いに刺激しあうことで自分の能力も引き出されていくのである。

 会社というのは、まさにそのためのコミュニティーであり、会社のこういったプラス面を、会社側もフリーランス側も理解しておくことも大切じゃないのか。違いを尊重し、共感する。それが個人のパフォーマンスを上げ、ひいては会社の生産性向上につながっていくことを知っていれば、「生かすも殺すも俺次第」などと勘違いする輩も減るのではないか。

●会社とフリーランスの新しい関係を

 会社の下にフリーランスがいるのではなく、あくまでも横。かつて大企業と中小企業が上下ではなく、同志としてつながり、大企業ができないことを中小がやり、中小ができないことを大企業が担保したような関係を、会社とフリーランスが構築できればいいと思う。

 今のままではフリーランスはただの下僕になりかねない。

 フリーラン=freelance は直訳すると「自由な槍」。本業フリーランスになる人は、自由という言葉に踊らされず、自分が戦える「槍」を装備しているか?を自問してほしい。

河合 薫 

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