前回は「正社員の誕生と日本的働き方モデル」について考えるなかで、今日使われるような意味での「正社員」という用語は、1980年前後に一般化したこと、またそれは「会社人間」という用語の普及と時期を同じくしていたと述べました。
このこととの関連で言えば、日本が企業社会(正しくは企業中心社会)になったのも1980年前後であったといえます。そもそも資本主義社会は企業に支配されてきたという意味では日本は資本主義になって以来ずっと企業社会であったと言えなくはありません。しかし、企業社会日本を象徴する「会社人間」「企業戦士」「過労死」といった用語はいずれも70年代末から80年代後半にかけて広く語られるようになったものです。
それはそのころから、企業文化が企業の枠を超え出て社会生活全般を律するまでになり、家族生活や地域生活という企業組織の外にある生活領域までもが企業活動に従属するようになったからだといえます。
日本がそういう企業社会になった大きな要因としては二つのことが考えられます。一つは先週NHKBSの「100年インタビュー」でロナルド・ドーア先生が言われていた、「持ちつ持たれつ」の農村共同体が高度成長の過程で企業社会に飲み込まれて解体されたことに起因しています。
もう一つは、日本の労働組合が組織率を下げていっただけでなく、ストライキをしなくなり、交渉力をなくしていったことです。先年亡くなった藤本武先生が『ストライキの歴史と理論』(新日本出版社、1994年)などで説いているように、1980年代の末には日本はストライキのない国になりました。その後は春闘もストなしになり、春闘の鉄道ストで大学が休講になることもなくなりました。ここに企業社会の成立の背景を求めるなら、1989年の総評解散と連合結成は、企業社会日本の完成を告げる社会現象であったといえます。
日本企業社会の完成を告げるもう一つの社会現象は「過労死」の誕生です。人間が働きすぎで斃れるという意味の過労死は、資本主義の初めから(金銀の採掘労働などでは資本主義以前から)ありましたが、1988年に至って突然のように「過労死」が現代用語になったにはそれなりの理由があります。
直接のきっかけは、この年に大阪を皮切りに「過労死110番」がスタートをし、それをマスメディアに大きく報道したという事情があります。しかし、それ以上に重要なのは、バブルによる経済の加熱と急激な残業増の影響もあって、働きすぎがかつてなく深刻な社会問題となり、そのことを象徴するものとして「過労死」が時代を映す用語になったということです。
以上、簡単に振り返った企業社会日本の完成は、実は企業社会日本の衰退の始まりでもありました。これについては回をあらためて述べることにします。