第204回 マッチョな政治に対抗して人にやさしい日本をつくるために力を合わせましょう

11月20に衆議院第一議院会館で「過労死防止基本法の実現をめざす」院内集会が開かれました。そこに来ていたある記者から、総選挙における政党の集合離散に関して、「マッチョなリーダーがなぜ持ち上げられるのでしょうか」という質問をうけました。そのときは時間がなくうまく答えられませんでした。

ウィキペディアは、<マッチョとは、男性がもつという「強靱さ、逞しさ、勇敢さ、好戦性」といった性質を基礎とした思想や信条、行動をあらわす言葉>と説明しています。語源はメキシコのスペイン語 macho(マチョ、「雄の」という形容詞からきており、<イデオロギー(政治的信条)としては「タカ派、右翼、保守、男尊女卑」といったものと結びつきやすく、「ハト派、左派、リベラル、両性平等」といった信条は軟弱と退けられる>とあります。これによれば前東京都知事の石原慎太郎氏や大阪市長の橋下徹氏は差し詰めマッチョの旗頭ということになります。

それにしてもなぜマッチョがもてはやされるのでしょうか。一つの原因は、経済成長が終息しただけでなく、日本経済が衰退してきたなかで、財政危機(赤字財政と国債累積)が深刻化し、経済再生と財政再建の名において、公務員賃金や生活保護の切り下げに大鉈を振るうことができる強力なリーダーを待望する声が拡がってきたことです。

これは小選挙区制で時計の振り子のように揺れ動くなかで生じた「政治の無力化」と無関係ではありません。マニフェスト(選挙公約)をことごとくかなぐり捨て、公約に掲げなかった消費税率の引き上げを強行した民主党は、有権者に「政治の無力化」をまざまざと見せつけました。そのことは民主党に貼られた「決められない政治」というレッテルに象徴されています。こういう政治情勢のもとで「決められる政治を」と煽り立ててきたマスコミもマッチョ政治の同調者だといえます。

それ以前の自公政治も大きな咎(とが)を負っています。人々の働きすぎと貧困をなくすことは政治の責任であるにもかかわらず、財界本位の自公政治は、過労死とワーキングプアの増加に手を貸しても、ブレーキをかけることには無力でした。それはこの十数年の規制緩和一辺倒の雇用政策を振り返るだけで明らかです。

無力化したのは政治だけではありません。本来は働く者の強力な味方であるべき労働組合も、連合傘下の大手企業組合ほどいよいよ御用組合化して、この10年あまりの賃金の切り下げに対しても、なすすべなく受け入れてきました。こうして政治に頼れないだけでなく、組合にも頼れない状況が拡がるなかで台頭してきたのが、賃金切り下げや組合潰しを「実行する」マッチョの政治リーダーです。ここには賃金が下落して苦しんでいるはずの人々が、強い政治家を盛り立てて、働く仲間の賃金を「下げろ、下げろ」と叫ぶという転倒した構図があります。

しかし、近年ではマッチョに対する対抗勢力も、意気消沈から立ち上がり、力を取り戻しつつあります。それを象徴しているのが、3.11以降の脱原発・反原発の運動です。一時期は20万人規模に膨れ上がった若者と女性が多い官邸前デモは、今日の日本における平和と環境と民主主義を志向する人々のエネルギーの大きさを示しています。

総選挙と同日選挙となった東京都知事選に「人にやさしい東京をつくる会」の推薦を受けて、宇都宮健児氏(前日本弁護士会会長)が立候補することになりました。彼が掲げる東京を変える政策は以下の4つの柱からなっています。
 
 1. 原発のない社会へ―東京から脱原発を進めます。
 2. 誰もが人らしく生きられるまち、東京をつくります。
 3. 子どもたちのための教育を再建します。
 4. 憲法のいきる東京をめざします。

これはマッチョの対極にある価値です。その核心は「人にやさしい」という一点にあります。いま必要なことは、都知事選挙でも総選挙でも、やさしさのかけらもないマッチョな政治に対抗して、人にやさしい東京、人にやさしい大阪、人にやさしい日本をつくるために、平和と環境と民主主義を志向するすべての人々が力を合わせることです。

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