第152回 第2の処女作から過労死防止基本法の制定運動へ

11月12日、大阪市内のたかつガーデンで「大阪過労死問題連絡会30年・大阪過労死を考える家族の会20年」の記念シンポジウムが開催されました。以下はその記念冊子に寄せた一文です。なお、連絡会は1981年「『急性死』等労災認定連絡会」として結成され、翌年3人の産業医によって『過労死』(田尻・上畑・細川著、労働経済社)と題した本が出版されたのを機に現在の名称になりました。

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私が過労死問題について初めて論文らしきものを書いたのは『経済科学通信』第60号(1989年7月)に掲載した「過労死――働きすぎ社会の告発」である。それは「はじめに」で次のように述べている。

「今年4月8日、大阪府立労働センターで大阪過労死問題連絡会(以下、連絡会)の第10回総会が約80名の参加を得て開かれた。わたしは過労死問題の実態をほとんど知らないまま、その場に記念講演の講師として臨んで、『「働きすぎ社会」を考える――そのひずみと克服の方向』と題してにわか勉強の話をした……」。

過労死問題にマスコミが注目しはじめたのは、前年4月19日に大阪弁護士会館で連絡会主催の「過労死シンポジウム」があり、その直後の4月22日に全国初の「過労死110番」が取り組まれたころからである。同年の6月18日には札幌から福岡までの全国主要都市で過労死相談の「110番」が一斉に実施された。当時、NHKは「ニュース・トゥデー」、「おはようジャーナル」、ドキュメンタリー’89「過労死・妻は告発する」などで、平岡悟さんの過労死事件と連絡会の活動を取り上げた。私が前掲拙稿のタイトルで「告発」という言葉を使ったのは、このNHKの番組から取ったものである。

わたしは、まだ駆け出しの研究者であった1970年代初めから、マルクスの『資本論』における労働時間論について話したり書いたりしていた。しかし、日本の労働時間と過労死問題に直接関心を持ちはじめたのは、1987年12月から88年1月にかけて、心臓弁膜症の2度目の手術のために北千里の国立循環器病センターに入院してからである。過労死と関係の深い脳心臓疾患の患者が多いという意味で企業戦士の傷病兵の救命病院ともいえる同センターでの入院体験は、わたしの中年からの研究の原点となった。その意味で前掲の拙稿はわたしの第2の処女作である。

1989年11月22日には、やはり大阪府立労働センターで、連絡会と民主法律協会などとの共催で、「さよなら働きスギ蜂――人間らしく健やかに働ける社会をめざして」というシンポジウムが開かれた。そこではNHKディレクターの織田柳太朗(筆名は華田晶之)さん、前田達男さん(金沢大学教授)、池田忠夫さん(東京海上火災保険会社)とともに、わたしも報告をした。かもがわブックレット『さよなら過労死――人間らしく生きるために』(1990年7月)は、そのときの報告をもとに作られたものである。

このときから20年経過した一昨年、連絡会の草創期からの会長であった田尻俊一郎先生が亡くなられ、昨年、思いがけず連絡会の会長を引き継ぐことになった。また、今年は、過労死防止基本法制定実行委員会の委員長を務めることになった。こうなったら過労死をなくすための研究と運動をこれからも続けるしかない。

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