第143回 仙台市と名取市の津波被災地を訪ねて想う

前回書いたように、今月18日(土)、福島を尋ね、19日(日)の朝、「福島県復興ビジョン検討委員会」がまとめた基本方針(案)について、座長代行の山川充夫教授(福島大学)に詳しくお聞きしました。その日の午後は仙台まで足を伸ばし、当地にお住まいの森岡ゼミ出身の小川さんと彼女の夫さんのご案内で、仙台市と名取市の沿岸部を半日見て回りました。

最初に訪れたのは仙台市塩釜港にほど近い横浜冷凍の辺りでした。ここは工場・倉庫地帯だったようですが、どの建物も津波の巨大な力に押しつぶされスクラップの山と化していました。そこから車で若林区の荒浜地区に入り、何度も降りて、家屋毎流された住宅地区や、船があちこちに置き去りにされている農地を見て回りました。

Googleでみると、荒浜地区は海岸のすぐ近くに住宅が立て込んでいたために被害が大きかったことがわかります。6月16日現在で仙台市の死者数は704人、行方不明者数は51人となっています。この犠牲者の多くは荒浜地区の人々ではないかと推察されます。

仙台市若林区の南西は名取市の閖上(ゆりあげ)地区に続いています。ここは若林区以上に悲惨です。6月16日現在で、名取市の死者数は910人、行方不明者数109人に上っています。津波で壁が抜けながら外形だけをとどめた家屋もありますが、大半はがれきが撤去され、大空襲のあとの東京の焼け野原の映像のように、見渡すかぎり平地が広がっています。

リアス式海岸の港町では、4〜5階のビルに大勢の人が避難して押し寄せる津波に怯えているテレビ映像をよく見ましたが、閖上地区にはどこにも高い建物も山も高台もはなく、津波が押し寄せたら、近くには逃げる場所がありません。それだけに強い恐怖と悲嘆を覚えました。私が撮ったものではありませんが、立ち寄った地点の同じ光景の写真がネットにありましたので貼り付けておきます。

閖上地区の日和山という名の数メートルの丘(多分盛り土)の下に、「地震があったら津波の用心」と題された震嘯記念碑が横たわっていました。デジタルカメラで撮ったしの写真を翻刻してみました(本文は、点や丸のないカタカナ混じりの書きですが、読みやすくするために句読点を入れ、ひらがなに改めました)。この教訓がはたしてどれほど生かされたか考えさせられます。

震嘯記念碑  地震があったら津浪の用心

昭和八年三月三日午前二時三十分突如強震あり。沈静後約四十分にして異常の音響と共に怒濤澎湃し来たり、水嵩十尺名取川を遡上して、西は猿猴圍、南は貞山堀廣浦江一帯に氾濫せり。浸水家屋二十餘戸。名取川町裏沿岸に在りし三十噸級の発動機漁舩数艘は柳原圍の畑地に押し上げられ、小艇の破砕せらるもの尠なからざりしも、幸人畜には死傷なかりき。縣内桃生牝鹿本吉の各郡及び岩手青森両縣地方の被害甚大なりしに比し、輕少なりしは、震源地の遠く金華山の東北東約百三十海里の沖合に在りて、濤勢牝鹿半島に遮断せられ、その餘波の襲来に過ぎざりしと、河口の洲丘及び築堤の之を阻止したるとに因るなり。震災の報一度天聽に達するや、畏くも天皇・皇后両陛下より御救恤として御内帑金を御下賜せらる。聖恩宏大なること洵に恐懼感激に禁へざるところなり。惟うに天災地変は人力の予知し難きものなるを以って、緊急護岸の万策を講ずべきは勿論、平素用心を怠らず変に応ずるの覚悟なかるべからず。茲に刻して以て記念とす。

なお、この年の地震と津波は、名取川河口では死傷者もなく、さほど大きくなかったようですが、ウィキペディアによると、震源は現在の岩手県釜石市の東方沖約200Km。マグニチュードは8.1でした。大津波の最大波高は、大船渡市綾里で28.7m。死者1522人、行方不明者1542人、負傷者1万2053人に及ぶ大災害だったようです。

日和山光景ユーチューブ

http://www.youtube.com/watch?v=attjbN7v3-8
http://www.youtube.com/watch?v=0ejZN_wei3U
http://www.youtube.com/watch?v=jxVwimTUU1Y
http://www.youtube.com/watch?v=0Q5qgn3oYnI

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