第156回 書評? 植村邦彦『市民社会とは何か――基本概念の系譜』

植村邦彦『市民社会とは何か――基本概念の系譜』平凡社新書、940円
平凡社新書、987円

「市民社会」の意味、文献渉猟で明らかに

本書は「市民社会」という概念の変遷をめぐる雄大な叙事詩である。

序章で著者は、「反貧困ネットワーク」事務局長の湯浅誠氏と、財界団体の経済同友会に語らせて、この国では「市民社会」という言葉が広く用いられながら、その意味内容は大きくすれ違っていると言う。

そこで著者は、国と時代が絡まって乱れもつれた麻糸を解くために、文献渉猟の旅に出る。アリストテレス、ホッブス、ロック、ルソー、ファーガスン、スミス、ヘーゲル、マルクスへと向かうこの道行きには、社会思想史の素人常識を覆す大小の発見がいくつも待ち受けている。

スミスは『国富論』で1カ所「civil society」という言葉を用いているが、それは彼の市民社会概念とされる「商業社会」とは意味が異なる。ヘーゲルの市民社会概念にはガルヴェによる『国富論』のドイツ語訳が影響しているが、その訳書では、原書で「社会」となっていた言葉がことごとく「市民社会」と訳されている。マルクスはヘーゲルから「市民社会」という言葉を受け継いだが、『資本論』ではそれを資本主義社会という言葉に置き換えた。

本書の後半では、「市民社会」という日本語の成立事情に重ねて、高島善哉を先駆者として、内田義彦、平田清明らが唱えた「市民社会論」が1960年代に一世を風靡し、やがて終焉を迎えた経緯が解き明かされる。

「市民社会論」が過去のものとなったのは、使用者たちによって誤って「自由・平等な個人の理性的結合によって成るべき社会」(『広辞苑』第2版、69年)という規範的解釈が「市民社会」の概念に持ち込まれ、揚げ句はそれが社会変革の理念としての意味を失ったからである。

資本主義が爛熟した今日の日本において創り出すべきは、ヨーロッパにあって日本にはないとされた「市民社会」ではない。新自由主義による「個の自立」に対抗して、企業の過度の営利活動を規制できるのは、「市民社会」ではなく、国家である。

では「civil society」とは何か。明快な結論は読んでのお楽しみに。

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