昨日の父の日、大阪でも「過労死110番」がありました。「過労死」が現代日本の深刻な社会問題であることが広く知られるようになったのは、いまから25年前の1988年に「過労死110番」の一斉電話相談が開設され、それがマスコミによって大きく報道されてからでした。
ではそもそも「過労死」という言葉は「だれ」が「いつ」最初に使ったのでしょうか。労災・職業病問題と取り組んできた細川汀・上畑鉄之丞・田尻俊一郎という三人の医師の共著『過労死――脳・心臓系疾病の業務上認定と予防』(労働経済社)が出版されたのは1982年です。しかし、これが初めてというわけではありません。
「急性死」や「在職死亡」と言われていた労働者の過重労働による死亡を産業医が「過労死」と呼びはじめたのは1970年代半ばからです。細川汀先生は、「私は75年頃から『過労死』ということばを編著書の中で使っていた」と回想しています(細川『かけがえのない生命よ――労災職業病・日本縦断』、1999年、103ページ)。上畑鉄之丞先生は、1978年の日本産業衛生学会総会で17例の循環器疾患の発症事例を初めて「過労死」として報告したと述べています(上畑『過労死の研究』日本プランニングセンター、1993年、18ページ)。
細川先生からいただいた上記の本には、関連箇所に手書きで「細川汀・辻村一郎・水野洋『労災・職業病闘争の課題』労働経済社、1975年」と記されていました。けれど図書館やネットで情報を検索してみましたが、この本は見つかりませんでした。そんな折り、「大阪労災職業病対策連絡会」の藤野ゆきさんに、同会の事務所に同書の余部があると聞いたので送ってもらいました。
すると、ありました。同書第8章「最近の闘いの成果と教訓」の第1節「脳卒中の認定の闘い」は、「過労死」として、1969年12月13日に死亡した朝日新聞大阪本社発送職場の竹林勝義さんの事件を取り上げています。この事件は、天満労基署でも、大阪労働者災害補償保険審査官でも業務外とされましたが、その後1974年7月に再審査請求をしていた中央の労働保険審査会で「業務上の事由によるもの」と認定されました。
前出の『過労死』に収録されている細川先生による竹林さん労災請求のための「意見書」では、彼はきわめて不規則な交替勤務に従事し、夜勤明け勤務のばあいは、午前4時30分頃終業、5時30分就床、10時起床、ただちに出勤という仮眠程度の睡眠しかとれない連続勤務を行っていました。
ひとつ疑問に思うのは先の『労災・職業病闘争の課題』で「過労死」という言葉がでてくる第8章は先年亡くなられた田尻先生が担当していることです。この点に注目すると、「過労死」という言葉を最初に使ったのは田尻先生であるとも考えられます。しかし、?細川先生が書かれた竹林意見書に「過労によって急性死する」という表現があること、?『過労死』は3人の共著ながら、細川先生が監修している本であること、?細川先生ご自身が75年頃から「過労死」という言葉を編著書のなかで使っていたと書いていること、?田尻先生はご自分では共著『過労死』で「過労死」が初めて使われたと言われていて、それ以前に「過労死」という言葉を使用したとは書いていないことなどから、やはり細川先生が創始されたのでしょう。
とはいえ、「過労死」という用語を社会に向けて発信したのは間違いなく『過労死』の3人の著者であって、3人のうちの誰がさきに使ったかはたいして重要な問題ではありません。