第140回 いまこそエネルギーの非核3原則を圧倒的世論に

本年9月に立教大学で開催される経済理論学会の特別部会で、震災・原発問題が取り上げられることになり、以下のような拙文を草しました。いささかフライングの感もありますが、この種の議論は早いに越したことはないと思い、ここに掲載します。いつもより少し長めですが、辛抱してお読みください。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー東電福島第一原発の大惨事発生から1ヶ月余り経った4月15日に、「原子力損害賠償紛争審査会」の初会合が開かれた。そのニュースに接して、名前からして何やらいわくありそうなこの委員会は、内閣府でも経済産業省でもなく、なぜ文部科学省に置かれているのか訝しく思った。

一つの疑問は、1999年9月に起きた茨城県東海村の核燃料加工施設で起きた臨界事故に触れた2000年8月3日の「朝日新聞」の記事を目にして氷解した。それには、事故の責任を問われて更迭された科学技術庁の原子力安全局長が早くも9ヶ月後に、同庁の筆頭局である科学技術政策局長に昇進したとあった。これでなるほどと再認識したことだが、文科省の「科」は科技庁の「科」であって、当時、科技庁の下にあった原子力関係の制度と機関は、2001年の行政改革によって文科省に移管されたのである。

では原子力行政はなぜ科技庁の所管だったのか。残る疑問は、科技庁の小史を見ればすぐわかる。科技庁は1956年に総理府原子力局を母体に設置された。ウィキペディアの説明には、「実際の科学技術行政の大半は通産省(現経産省)やその他の所管省庁に握られ、科技庁所掌は主に原子力及び宇宙関係行政であった」とある。科技庁のこうした出自は、戦後日本の「科学技術立国」はなによりも「原子力立国」あるいは同じ意味で「核立国」であったことを語っている。

科技庁の初代長官は、読売新聞の経営者として知られた正力松太郎であった。彼は、57年には、岸内閣の下で国家公安委員会委員長、科学技術庁長官、原子力委員会委員長を兼務する国務大臣に就任している。日本に「原子力の父」がいるとすれば、その称号は、戦後の早い時期から、アメリカ政府とCIAの意を体して、若かりし時代の中曽根康弘と手を結び、日本の核立国を推進してきた彼にこそふさわしい。

核立国の喩えで言えば、原子力の父は核の父であるはずだが、日本では、原子力は平和とエネルギーに、核は戦争と兵器に結びつけられ、両者は別物とされてきた。3月11日の直後から、海外のメディアは原子炉の溶融や水素爆発がもたらす大惨事を「核災害」(nuclear disaster)、あるいは「核危機」(nuclear crisis)と報じた。日本では地震や津波は災害として語られても、原子炉の暴走は事故とされ、災害として語られることは少ない。それ以上に、原子炉の電源喪失とそれに続くメルトダウンを、核災害あるいは核危機と呼ぶことはもっと少ない。その一つの証左は、福島の被曝と広島・長崎の被爆(被曝)を関連づける議論が最初の2〜3週間はほとんどなく、今でもきわめて少ないことに示されている。ここから振り返ると、原子力と核とを分離する概念操作は、雇用と使用を分離して派遣労働を容認した概念操作と同様に、政府・産業界の深慮遠謀の所産であると言わねばならない。

東電福島第一原発の1号機は1966年12月にGEを主契約者として着工され、71年3月に営業運転を開始した。2号機は69年5月着工、74年7月運転。3号機から6号機まではいずれも70年代前半に着工、後半に運転を開始した。電力産業をはじめとする日本の基幹産業における大企業の労働組合は、70年代半ばのオイルショックを境に企業主義と労使協調主義を強め、80年代にはストライキをほとんどしなくなった。その結果、電力産業では、企業・労組一体の原発推進体制が盤石のものとなり、東電は、福島第二の1〜4号機、さらには柏崎刈羽(新潟県)の1〜7号機の着工・運転へひた走ることができた。そうしたなかで、76年に東電社長に就任した平岩外四が、経済審議会会長や産業構造審議会会長を歴任し、90年から94年に経団連会長を務めたことや、86年東電労組書記長、89年同委員長になった笹森清が、2001年から2005年まで連合会長に就任し、2010年10月に内閣特別顧問になったことは、核立国のもとでの企業・労組一体の原発推進体制と無関係ではない。

問題の背景は、労働市場の構造と労使関係にも深くかかわっている。「週刊東洋経済」2011年4月23日号によると、日本の原発作業員のうち、電力会社の社員は1万人弱、下請け労働者は7万5000人(2009年度、原子力安全・保安院)である。核災害発生以前の福島第一では、1100人強の東電社員に対して、原発メーカーである東芝、日立製作所などを元請とする、孫請け、曾孫請けどころか7次、8次に及ぶ下請け労働者群は9000人を超えていた。これらの労働者は、下請け会社の正社員も含めて、電力会社から見れば間接雇用あるいは外部雇用の非正規労働者にほかならない。彼らはほとんど例外なく未組織労働者であり、原発の過酷な労働条件について声を上げることさえできない状態に置かれている。

これを押し広げて言えば、日本の原発には、核の危険について、何も言わずに核開発に手を貸してきた労働組合に組織された1割余りの正社員と、何も言えずに核の危険に身を曝してきた8〜9割の未組織労働者が働いていることを意味する。身分的な階層構造で引き裂かれたこの原発労働者集団は、「持つ・造る・輸出する」の核政策を推進してきた政府、国策産業で利益を上げ安全宣伝をしてきた電力会社と原発メーカー、それに場を提供してきたマスメディア、核の安全性神話を固めることに腐心してきた科学者集団とともに、被曝国日本において核の危険をインビジブルにしてきた五重の塔を形成している。

2011年3月11日の大震災とその後の核危機は、こうした五層構造をいやおうなく浮かび上がらせ、そのかぎりでビジブルにした。とすれば、いまこそ、「持たず・造らず・輸出せず」のエネルギーの非核三原則を圧倒的な世論にするべきときである。

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