第293回 神戸新聞随想第7回  『二十四の瞳』に学ぶ

神戸新聞 随想 2015年8月10日

戦後70年の本年7月5日、小豆島町で「『二十四の瞳』に学ぶ平和トーク」があった。
壺井栄のこの名作は、大石先生が師範を出て岬の分教場で1年生を担任する場面から始まる。それから15年戦争と言われる長い戦争があった。

岬の子どもたちは5年生になると片道5キロの対岸の本校に通うようになる。本校では、草の実」という子どもの作文集を持っていただけで「赤」の疑いをかけられる事件があった。そんな思想統制について行けず、先生は最初の教え子たちが小学校を卒業した年に、教師を辞める。

戦争が激しくなり、島の貧しい若者に次々と赤紙が来る。教え子が戦地に行く日、送りに行った先生は、そっと「名誉の戦死など、しなさんな。生きてもどってくるのよ」と言うのだった。

大石先生が分教場で教えた12人は、5人が男子、7人が女子であった。

戦争が終わり、復職して分教場に戻ることになった先生を囲んでクラス会が開かれる。しかし、森岡正、竹下竹一、相沢仁太(にた)の姿はなかった。戦死したのである。岡田磯吉は失明除隊で生き残った。男子で無事だったのは漁師の徳田吉次だけだった。船乗りだった先生の夫も戦死していた。

敗戦の8月15日、落ち込む息子に、先生は「よかったじゃないの」「もうこれからは戦死する人はないもの」と言う。

島の玄関、土庄町の桟橋前広場に、オリーブを背に『二十四の瞳』の「平和の群像」がある。

除幕式に招かれた壺井栄は、像を揮毫した鳩山一郎首相が再軍備と改憲を唱えていたことから、挨拶を拒んだ。慌てた主催者から何を話してもよいからと強く請われた彼女は、再軍備反対と平和への思いを述べた。

『二十四の瞳』に学ぶなら、日本を再び戦争をする国にしてはならない。

この記事を書いた人