三井三池炭鉱三川坑:爆発事故から50年 458人悼む

毎日新聞 2013年11月09日

旧三井三池炭鉱三川坑炭じん爆発50年式典で、祭壇に献花をする遺族や関係者たち=福岡県大牟田市で2013年11月9日午前10時28分、三村政司撮影(写真省略)

爆発で坑内入り口は大破し、トロッコが横倒しになった=1963年11月9日撮影(写真省略)

 死者458人、一酸化炭素(CO)中毒患者839人を出した戦後最悪の炭鉱事故、旧三井三池炭鉱三川坑(福岡県大牟田市)の炭じん爆発事故から50年を迎えた9日、三川坑跡で「炭じん爆発50年式典」があった。遺族や関係者約450人(主催者発表)が参列し、祭壇に献花して犠牲者をしのんだ。

 50年の節目に、旧三井鉱山が社名変更した「日本コークス工業」と労働団体のほか、地元大牟田市や南隣の熊本県荒尾市など自治体、議会など11団体が初めて実行委員会をつくって企画した。

 式典で、実行委員長を務めた古賀道雄・大牟田市長は「犠牲になられた方々の御霊(みたま)が安らかならんことを祈り、今も病と闘われている患者の皆さんに心よりお見舞い申し上げます」と述べた。また、大牟田高1年、伊豫ひなこさん(15)は「石炭産業の繁栄の歴史の影にある苦難の歴史も学び、次の世代に伝えていくことが大牟田で生まれ育った私たちの役目だと思う」と話した。

 祭壇は、事故の死傷者が運び出された第2斜坑前に設置。遺族や患者、旧労働組合関係者らに続き、日本コークス工業幹部も献花した。一方、事故の謝罪をしていない日本コークス工業に反発するCO中毒患者らは参加を見送った。

 三川坑は1959年、三井鉱山による1278人の指名解雇に端を発し「総資本対総労働」と言われ60年まで続いた三池争議の舞台にもなった。

 爆発事故は63年11月9日、炭車の脱線に伴い、坑内の炭じん(石炭の微粉末)に火花が引火して起きた。事故後、遺族や患者らは三井鉱山の責任を追及し、損害賠償を求める訴訟を起こした。事故30年後の93年、福岡地裁は三井鉱山の過失責任を認めて賠償を命じた。しかし、CO中毒で幼児レベルの知能になるなど、後遺症で今も入院を余儀なくされている患者が少なくとも17人いるという。

 三池炭鉱は97年に閉山し、三川坑内への立ち入りは禁止されている。大牟田市は国内の産業振興を支えた三川坑の保存・活用を決めており、遺族や被災者が、全犠牲者の名を刻む慰霊碑建立を目指している。【近藤聡司】

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