今井正監督 没後20年によせて/たしかな「視点」

今井正監督 没後20年によせて/たしかな「視点」

★高校生のとき、今井正の『仇討』(あだうち)(東映・1964年)を観て衝撃を受けた。次の日、映画好きの同級生にそれを話したけれども、「日本映画はもうあかんで。時代劇は落ち目もええとこやで」と、彼は僕の「衝撃」を一蹴した。

★実際、そうだった。その頃、もう東映などの時代劇は全盛期を過ぎていた。それに黒澤明の『用心棒』(東宝・1961年)や『椿三十郎』(東宝・1962年)の、あの重厚な映像に触発されて、チャンバラ映画は一変していたのだ。どの時代劇も黒沢の「作風」を真似た。とくに、この2作から始まった、剣で人を斬るときの音、肩口から噴射する鮮血、そうしたグロテスクなリアルさだけを真似た。ともかく時代劇は陰惨ものに変わってしまった。しかし、それは黒澤映画の上面(うわつら)を模したに過ぎない。

★たしかに『用心棒』と『椿三十郎』は、画面は暗く、息苦しいところもある。しかし、脚本の出来がちがう。実によく練られており、他の追随を許さない。そこには黒澤の批評の精神が息づいている。権力者に対する徹底した批判があり、それはときに脱兎(だっと)のごとく描かれる。その滑稽さ。科白(せりふ)も洗練されている。例えば、『用心棒』では、浪人・三船敏郎が、自分を助けてくれた酒屋の親父がヤクザに捕らえられたと聞いて、懐に手裏剣がわりの出刃包丁をしのばせ、刀を握り締め、親父を助けに行くときの科白。「あいつらを、たたっ斬ってやる」ではなく、「刺身にしてやる」なのである。深刻なシーンに、その絶妙な間、思わずニヤリとしてしまう。この「間」が模倣作品にはない。だから笑いもなく、妙に深刻ぶって面白くないのだ。

★話を『仇討』に戻そう。「ともかく、だまされたと思って、観てみぃや」と僕は友人に食い下がった。しかし、彼は返事をしなかった。3日後、休憩時間のとき、友人は校庭にいた僕を見つけて走ってきた。「おい、あの映画、おまえのいう通りやった、凄かったわ」と言った。少し興奮していた。

★『仇討』の主演は萬屋銀之助(よろずやきんのすけ)。当時の姓は中村である。脚本は橋本忍。物語は江戸時代。江崎新八(萬屋錦之助)は、些細(ささい)なことで、武士の面子(めんつ)を潰されたと上役の奥野孫太夫(神山繁)と果し合いをして、孫太夫を斬殺してしまう。争い事はご法度である。もし、このことがお上の知るところとなれば、喧嘩両成敗で両家とも潰されてしまう。両家は「2人は乱心ゆえの死闘だった」ということにして、新八は山寺に預けられる。しかし、孫太夫の家督を継いだ弟主馬(丹波哲郎)は収まらない。単身、山寺に乗り込んできて、新八を斬ろうとするが、逆に返り討ちされてしまう。今度は奥野家全体が騒ぎ出し、「仇討」を藩に申し出て、藩はそれを許可する。このことを知った山寺の住職は、新八に出奔(しゅっぽん)するように進めるが、そこへ新八の兄がやってきて「両家のために斬られてくれ」と説得する。やむなく新八は「潔く斬られよう」と覚悟を決める。そして、「仇討」の前日、自らの剣の刃をこぼして斬れなくする。「仇討」は公開でおこなわれた。城下から見物人が続々と集まってくる。果し合いがはじまった。新八は奥野家の家督を継いだばかりの若武者に斬られるつもりで臨んだが、奥野家を加勢する数十人が「仇討」場に乱入してくる。卑怯なり。自分は見せしめのために嬲(なぶ)り殺しにされるのか。この「仇討」の場は「騙し討ち」の場だったのか。おのれッ。新八は、逆上し、絶叫しながら、刃を落とした刀を振りかざして向かっていく。しかし、多勢に無勢。

★この映画も『用心棒』『椿三十郎』と同じモノクロで、画面も内容も相当に重苦しいが、多くの模倣作品とは違う。そこには今井正の確かな「視点」がある。それは権力の理不尽さに対する憤りである。だから、この映画を観終わったあと、僕も友人も唸ってしまったのだ。

★今井正は青年時代にマルクス主義の影響を受けている。しかし、1935年に東宝に入社してから、おそらく本意ではなかったであろうが、太平洋戦争中には戦意高揚映画を作った。戦後はその反省からか、『青い山脈』(1949年)、『また逢う日まで』(1950年)など、反戦映画と民主主義を高らかに謳いあげる作品を数多く作っている。その後、今井正はレッド・パージによって東宝から追放されて、一時期、生活は困窮する。しかし、山本薩夫(『真空地帯』や『野麦峠』の監督)らと共に独立プロを創立し、『どっこい生きてる』(1952年)などを作る。1953年には戦争映画の傑作『ひめゆりの塔』を監督している。その後、次々と名作を世に送り出すが、晩年は恵まれず、『戦争と青春』(1991年)が最後の作品となった。

★今井監督の好きな作品を三つあげるなら、一番目は文句なしに『にごりえ』(1953年 原作・樋口一葉)だろう。二番目は『越後つついし親不知(おやしらず)』(1964年 原作・水上勉)。そして1番目、2番目とは甲乙つけがたいけれども、3番目には『武士道残酷物語』(1963年 原作・南条範夫)をあげておこう。この三作品の基(もと)いは、貧しさゆえの辛さ、悲しみ、それに耐え抜く人たちへの優しい眼差(まなざ)しだろう。そして、繰り返すが、日本風土に沈殿している「非合理主義」(歴代権力がおしつけてきた、自助・相互扶助=「共助」といっておけば、それでよいだろう)に対する憤りである。

★『にごりえ』は日本映画史上で屈指の傑作だ。樋口一葉の小説群の、あの文体の息遣いを壊さずに映像化している。これは驚きというほかない。作品の題名は『にごりえ』だが、『たけくらべ』(主演・美空ひばり)、『おおつごもり』(主演・香川京子)などが入っており、オムニバス形式となっている。とくに『にごりえ』がいい。娼婦・お力(淡島千景)が子どもの頃を回想する場面がある。真冬でも薄い着物しかない貧乏な生活で、母親がなけなしの金をお力に与えて、米を買いに行かせる。ところがその帰り道、水溜りに張った氷に足を滑らせて転倒し、持っていた鍋の中の米を泥水にぶちまけてしまう。ベソをかき、途方に暮れるお力。今井監督と小説家・樋口一葉の、市井の人々を見つめる、冷徹だけれども、その優しい眼差しが重なりあう。

★一葉の文体に初めて接した人の多くは、その「異様さ」(この表現は不正確かもしれないが)に面食らうだろう。僕もそうだった。『にごりえ』と『たけくらべ』を読むことは読んだけれど、どうしても頭の中に入ってこない。その後、ある批評家が、一葉の文体というのは、会話にカギ括弧がついておらず、地の文と一体となっているから戸惑ってしまうのだ、と書いていた。僕はそのことを意識して再読した。すると躍動感あふれる一葉の言葉が、僕の身体にどんどん入ってきた。僕は全作品を一気に読んでしまった。恐らく、今井正は、一葉の小説を何度も読み返したと思う。そして、その一葉の文体を自らの身体に一体化させて、『にごりえ』を作ったに違いない。

★『越後つついし親知らず』の背景にも貧困がある。時代は日支事変の始まった年(昭和12年)、日本が軍国主義一色に染まっていく時代。留吉(小沢昭一)と権助(三國連太郎)の2人は、越後で米作りを生業(なりわい)としているが、農閑期には、毎年、京都・伏見に酒造のために出稼ぎに行く。いわゆる杜氏(とうじ・酒造り職人)である。留吉は大人しく働き者で、おしん(佐久間良子)という美しい嫁がいる。権助はそんな留吉を妬んでいた。その年、権助は留吉より一足先に伏見から故郷に帰ってくる。そして、ある日、欲情に駆られた権助は、おしんを犯してしまう。さらに、不幸にも、おしんは権助の子を身ごもる。なんとかお腹の子をおろそうとするけれど、できない。やがて留吉が帰ってくる。彼女は留吉と姑にこのことをひた隠しにするのだが、ひょんなことから、お腹の子の親は権助だったことが分かってしまう。怒り狂った留吉は、水田の真ん中で、おしんをなぎ倒して首根っこを摑まえ、顔を泥田の中に押しつける。泥まみれになってもがくおしん……荒涼とした雪の越後不知火の風景がとても印象的な作品だった。

★『武士道残酷物語』は『仇討』の前年に製作され、ベルリン映画祭で金熊賞を受賞している。ぼくは、これを『仇討』から10年後にある地方の映画館で観た。自己犠牲を強いられる武士の家系の、戦国時代から現代までの7世代の物語である。常軌を逸した封建的「忠義」のありよう、それに対して、ほとんど疑問も持たずに「忠義」を尽くす家臣、その不条理さを描く。これも中村錦之助(萬屋錦之介)が力演している。

 

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