「プレシャス」を観る/貧困という恐ろしさ

●貧困者は、?社会から、?企業から、?親族から、?教育を受ける権利から排除され、そして自分を排除してしまう。「こんな状況に陥ったのは自分の責任だ」と。経済的貧困は心をも貧困にする。それが最も恐ろしい。凄まじい勢いで心が荒廃する。その結果、怠惰が蔓延し、生きること働くことの持続が欠如する。猜疑心を増幅し、人間不信に陥ってしまう。連帯感も喪失する。そして社会的に孤立していく。このことは反貧困ネット事務局長の湯浅誠氏が常々指摘しているところだ。『プレシャス』はまさにそんな映画だった。

●舞台は貧困と犯罪と病気が蔓延する1987年のニューヨーク・ハーレム。16歳のプレシャス(新星ガボレイ・シディベ)はとてつもない肥満体。読み書きができない。生活保護を利用している。学校では男子生徒から「デブ」「ブタ」と呼ばれていじめられ、家に帰れば母親メアリー(喜劇俳優モニーク)から虐待を受け続ける。母親は終日ソファーに座りっぱなしで何もしない。学校から帰ってきたプレシャスに食事の支度をさせ、気に入らないとその彼女の背中に悪罵を浴びせ続け、逆らえば物を投げつける。
 プレシャスは12歳のときに実父に犯され身ごもってしまう。それから父親は行方不明となる。そして彼女が16歳のときに舞い戻ってきた父親に再び犯され、また妊娠する。母親はプレシャスが夫に犯されるのを半ば容認していた節があった。
 彼女は妊娠を理由にハイスクールを退学させられ、代替学校に行くことになった。そこは問題を抱える子どもの学校だ。作文を教えるミス・レイン先生(ポーラ・パットン)に出会い、「読む・書く」ができるようになってゆく。学ぶ喜びを身体で感じる。その途中で2番目の子を出産する。親切な看護師(ロックシンガー/レニー・クラヴィッツ)とも出会い、ケースワーカーのミセス・ワイス(ポップス界の歌姫/マライヤ・キャリー)も援助してくれる。しかし、プレシャスにさらに過酷な運命が待ち受けていた……。

●『プレシャス』とは「愛しい、尊い」という意味。物語は凄惨だが、暗くはない。プレシャスが困難にもめげず精神的な貧困状況から脱却し自立をしていく姿を丹念に描いているからだろう。もうひとつは彼女を支えるまわりの人たちが可哀相だから「やってあげている」というのではなく、彼女自身が過去を乗り越えて自立するその援助者に徹しているからだろう。三つめは80年代のポップ・ミュージックテンポの良さだろう。
 また、プレシャスが虐待を受けている最中にいきなりカメラが彼女の内面に入り込み、豪華な衣装を身につけたプレシャスが現れ、歌い、踊り、微笑み、そしてキスをする。このユーモラスな場面が凄惨な場面と対比する。この演出はファンタスティックで見事だ。
 監督はリー・ダニエルズ。これが2作目。特筆すべきは母親役のモニーク。「なんという母親だ」と思ってしまうほどの、気迫ある演技でアカデミー賞助演女優賞を受賞した。

●ところで、この映画と今日の日本の状況と二重映しになった。「貧困」からの脱却のキーポイントは「自立」だろう。それは無闇な「自己責任論」ではできない。安定した雇用の確保と賃金、社会保障の拡充、教育の保障、その上での自立支援がいると思う。ぜひ観て欲しい映画だ。                2010年5月10日 月藻 照之進

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