東京新聞  過労社会 防げなかった死 <上> 命より大切な仕事って

東京新聞 2012年5月28日

働き過ぎから心身ともに追い詰められる「過労社会」をつぶさに目撃してきたのは、女性たちだ。ある日突然倒れた夫や子どもを日々、会社に送り出してきた。

「国に要請しても裁判に訴えても過労死は減らない」

約二百五十人の過労死遺族でつくる「全国過労死を考える家族の会」代表の寺西笑子(えみこ)さん(63)=京都市=は昨年十一月、衆院議員会館でマイクを握った。議員らを前に「過労死防止基本法(仮称)」の制定を訴えた。

寺西さんは一九九六年、そば店で働く夫を過労自殺で失った。労災申請しようと、新聞に載っていた電話相談「過労死一一〇番」にかけた。

応対したのが現在、「過労死弁護団全国連絡会議」事務局次長を務める岩城穣(ゆたか)弁護士(55)だった。「まだ自殺の認定基準はなく、現状では認定は難しい」と寺西さんに告げた後、こう持ち掛けた。「新たな基準を作るために僕も頑張っている。一緒に頑張りませんか」。以来、寺西さんは岩城弁護士と行動を共にしてきた。

「過労死」という言葉は、三人の医師が八二年に出版した書籍に初めて登場する。当時は、労働者の急死の原因を解明し、労災認定を求めようと、一部の弁護士や医師らが活動を始めたばかり。岩城弁護士は「会社の責任を問う発想はなかった」と振り返る。

八八年に大阪の弁護士らが始めた過労死一一〇番をきっかけに、遺族が立ち上がる。各地で家族の会が設立され、九一年に全国組織となった。遺族は弁護団と連携し、労災申請や企業の責任を問う裁判を次々と起こした。

労災認定に数年、裁判ならばさらに数年。会社から協力は得られず、遺族自身が過労を示す内部資料や同僚の証言を集めて回った。勝訴すれば、成功例として会員の中でノウハウを情報交換した。会員の裁判が先駆けとなって判例も生まれ、過労死への社会的関心も高まっていった。

寺西さんも十年かけて会社側に責任を認めさせ、裁判で和解。家族の会は、労災認定の基準を緩和させる原動力となった。過労死の主因である「脳・心臓疾患」と「精神障害」の労災認定率は、九七年に約13%だったのが、二〇一〇年には約30%にまで伸びた。

「日本人は身を粉にして働くことを美徳としてきた。法律を作り、こうした働き方を考えるきっかけにしたい」と寺西さん。基本法に、国や企業の責任を明確にし、政府の重点施策に過労死防止を盛り込むことなどを求めている。

家族の会などは現在、全国で署名活動を行っており、すでに十六万人分が集まった。六月六日に再び、議員会館で集会を開く。
「命より大切な仕事って何ですか」。家族を奪われた女性たちの訴えから、過労死根絶へ大きなうねりが起きつつある。
(中沢誠と皆川剛が担当しました)

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