朝日新聞 2014年08月24日
[評者]諸富徹(京都大学教授・経済学)
■下からつくられた日本の環境政策
公害研究の第一人者の手による決定版がついに出版された。今後、本書を繙(ひもと)くことなしに公害を語ることはできなくなるだろう。冒頭で著者は、高度経済成長を成し遂げた日本人の成果とまったく同様に、公害克服に努力した日本人の成果が高く評価されるべきだと述べる。まったく同感だ。本書はたしかに戦後公害史だが、何よりもそれは、私たち戦後社会の軌跡そのものである。
それにしても凄(すさ)まじい被害だ。本書の筆致はあくまでも冷静だが、自殺者が出るほど理不尽な被害を受忍させられた人々の苦しみと悔しさは、筆舌に尽くし難かったに違いない。水俣病など四大公害にしても、原因企業は因果関係を真っ向から否定、被害者は救済されるどころか差別され、地域で孤立したという。今では想像できないこうした雰囲気の中で、妨害に打ち勝って裁判を起こすことは、並大抵のことではなかった。
被害者が期待した政府や自治体の政策は遅々として進まず、時には産業側に立って公害を隠蔽(いんぺい)しようとすらしていた。1967年成立の公害対策基本法は、「経済調和条項」が入った結果、骨抜きとなり、かえって汚染が拡大してしまったと著者は厳しく断罪する。
こうした状況を打破したのが、公害裁判であった。本書の大きな貢献は、これら公害裁判で闘わされた論争を大変わかりやすく整理し、素人でも理解可能な形で判決の意義を示したことである。これは、幾多の公害裁判で研究者として証言台に立ってきた著者であればこそ、可能だったといえる。
こうして、被害者にとっては大変苦しいプロセスを経てようやく、彼らは勝訴を勝ち取っていく。それは国と産業界に衝撃を与え、環境政策を大きく前進させた。そればかりでなく、怒った国民は住民運動を背景に、国政レベルでは不可能だった「政権交代」を自治体レベルで成し遂げ、革新自治体に、条例を通じて国を上回る実効性の高い対策を実施させた。
著者は日本の環境政策が決してトップダウンではなく、ボトムアップ型で形成された点に特徴があると強調する。それは、世界でも類例のない公害問題を手探りで克服する中から、新しい法理論が生み出され、画期的な被害者救済制度が創出され、今では当たり前になった「原因者負担原則」が打ち立てられる創造的な過程でもあった。
結局、日本経済は公害を克服することで、一層の成長を遂げた。たしかに、そのために多額の費用がかかったが、それ以外に選択肢があっただろうか。福島第一原発事故後の世界に生きる私たちは、本書から限りない教訓を引き出せる。著者のいうように、まさに「歴史は未来の道標」なのだ。
岩波書店・8856円/みやもと・けんいち 大阪市立大学名誉教授、滋賀大学名誉教授(財政学、環境経済学)。『日本社会の可能性』『維持可能な社会に向かって』『環境経済学新版』など。