「アリ」たちの反乱 引っ越し大手、過重労働の現場

http://www.nikkei.com/article/DGXMZO97731410W6A220C1000000/
日本経済新聞 電子版 2016/2/29

 「アリさんマーク」で知られる運送会社「引越社」(名古屋市)が元従業員からの集団訴訟に揺れている。昨年7月に始まった集団提訴は、今年2月時点で30人を超す規模に発展。業務中の事故で払わされる高額な自己負担金や、未払い残業代の返還要求は激しさを増す。引っ越しシーズンを迎える中、業界全体に飛び火しようとする過重労働の現場を追う。

■和解決裂

 「和解交渉はいったん打ち切りましょう」

 1月19日、東京・新宿にある都庁第1本庁舎38階の一室。調停員が、引越社と元従業員の和解交渉の決裂を確認した。社外の労働組合に加盟する約40人の引越社の元従業員が提示した和解金額は「最低でも億単位」。それに対し引越社の経営陣が最後に提示した額は5000万円だった。昨年7月に元従業員12人が名古屋地方裁判所に給与返還などを求める集団提訴したのを皮切りに、2月22日時点で原告は名古屋地裁で15人、東京地裁で18人、大阪地裁は1人と合計で34人にまでふくれあがっている。

引越社関東(東京・中央)の前で抗議活動をする組合員(省略)

 元従業員が求めているのは、引っ越し業務中の事故で払わされた高額な自己負担金や、未払い残業代の返還だ。訴状によると、事故時の高額な自己負担の強制は、労働基準法第24条で定められる給与の「全額支払いの原則」に抵触するとし、弁護団は失われた給与の返還や慰謝料を引越社に求めている。

 名古屋で元従業員の集団提訴の代理人を務める吉川哲治弁護士は「判決まで持ち込む場合、最低でも数年はかかるだろう」と予想する。

■「自己負担額」は投票で決まる

 実際に何が起こっていたのか。引越社の内部資料「役員会議報告」からは、元従業員の負担の実態が見えてくる。一部を抜粋してみよう。

▼「赤信号見落としにより、直進車両に衝突。被害車両がマンション壁に激突した。総被害額462万円【審議結果】免責額210万円」▼「高速道路を運転中、脇見運転にて前車に追突する。被害総額407万円【審議結果】免責額178万円」▼「時計を見ていて赤信号で停車中のバイクに追突。総被害額232万円【審議結果】免責額104万円」

 「審議結果」の後に書かれているのが、従業員の負担額だ。役員会議に出席する十数人が、おのおの妥当と思う額を投票し、その平均値を「審議結果」として従業員に請求する。資料からは、事故による被害総額の3〜7割程度の負担を課す事例が多かったことがうかがえる。取材に応じた引越社の井ノ口晃平副社長は、「世間の風当たりも強いので、昨年3月からは自己負担の上限を総額の3割に抑えた」と説明する。

アリさんマークの引越社の役員会議報告の資料(資料)

 意外だが、引越社をはじめ、物流業者の多くは事故時の車両破損をカバーする保険に入っていない。多数で乗り回す引っ越し会社のトラックは事故が多く、「保険料が高額で、払っていたら赤字になってしまう」(引越社幹部)。業界団体の全日本トラック協会(東京・新宿)引越部会の鈴木一末部会長は、「引越社の一連の問題が事実だとすれば、問題なのは従業員に強いている額の大きさだ」と話す。

 引越社には、従業員から費用を確実に徴収する仕組みもある。「社内貯金」と「友の会」だ。「加入は任意」(同社)だが、実際には「入会しないと本部に呼び出され、それでも入会しないと『反抗的』と認定され、人事で不利益な扱いをされる」と元従業員は実態を語る。

 事故を起こした社員が手持ちの現金で弁済できないときは、まず、月々の給料から天引きされる「社内貯金」が使われる。それでも足りない場合は、従業員1人当たり月千〜数千円ほど給料からプールされている「友の会」と呼ばれる社内基金から借りる。

■「なんの光明もない」

 引越社の大がかりな裁判沙汰の背景には、引っ越し業界の価格破壊と競争の激化がある。

 引っ越し最大手のサカイ引越センターの14年度の引っ越し平均単価は9万円台後半。1990年代のピークの12万円台から約2割下がっている。比較的単価が高い第2位のアートコーポレーション(大阪府大東市)でも、同じ時期に約18万円から13万円へ下落した。原因はインターネットの見積もりサイトの登場だ。アートの寺田政登専務取締役は「自動で10社近くから金額を比較できる。金額だけで選ぶお客さんが増えている」と嘆く。電話の時代は見積もりは多くても3社程度。会話ができればサービスや品質の売り込みもできた。

 市場も縮小している。業界関係者によると引っ越し市場は1980年代後半の7000億〜1兆円をピークに下降し、現在は約4000億〜5000億円。実際、総務省のデータでも、昨年、都道府県間や市町村間を移動した人の数は504万人で、ピークだった73年の約850万人から4割下落した。新規住宅着工戸数も昨年は90万戸で、73年の190万戸から半減している。

 引っ越し業界は、70年代の黎明期から80年代のピークを経て、かつてない苦境に立たされており「なんの光明も見いだせない状況だ」(日本通運の高木貴志部長)

■引越社の凋落と2強時代

 そんな中で、業界首位のサカイとアートがシェアを伸ばす。サカイの14年度売上高は687億円(前年比6%増)、営業利益は62億円(同5%増)。アートも15年9月期で売上高628億円(4%増)経常利益は43億円と前年から微増させた。

 一方、引越社の14年度は赤字。15年度の売上高は260億円を切り、14年度の約270億円から微減となる見通しだ。

 「拠点開発の遅れが明暗を分けた」。引越社の幹部は敗因を分析する。引越社の16年2月時点の支店数は74カ所。一方、サカイ、アートはそれぞれ173、130カ所と、両社に倍もしくはそれ以上の差を許している。

 拠点の数は重要だ。東京から北海道に引っ越しをする際、荷物を北海道で降ろした後に、北海道で荷物を積めば、トラックを有効に活用できる。それができないと「片道運送」になり、価格競争に耐えられなくなる。

 引越社の井ノ口副社長は「サービスの質を落とせば支店などいくらでも出せる。ただ、それは創業者の意思、我々の理念に反することだ。それが足かせになって出店が遅れた」と、支店開発の遅れをサービス水準維持のためと説明する。

引越社の研修の様子(東京・江戸川)省略

 実際、引越社はサービス水準の維持に腐心している。引越社は従業員の研修や教育に使う「研修センター」を全国に16年2月時点で13カ所持つ。これはサカイの5カ所、アートの3カ所に比べても突出して多いし「研修センターを持たない地域には支店は出さない」(井ノ口副社長)としている。

 ただ、前述の「役員会議報告」からは、別の事情も見えてくる。

▼「暴力事件審議。車載資材を備えるように助手に指示し、何度も確認した時にOKと回答していたにもかかわらず、数が合っていなかったことに腹を立て、暴力」▼「派遣スタッフがブルゾンを脱ぎ捨てたため、強い口調で注意したところ口論となり、派遣スタッフを投げ飛ばしてしまった」▼「お客様宅にダン配=段ボール配達=に伺った際に接吻等の行為をし、トラブルになる」

 元従業員は、「競争が激しく、単価が下落し、人も集まらない中、売り上げを確保するため、1人の社員がこれまで以上に多くの現場をこなすようになっていった」と振り返る。研修を強化してサービスを維持するために、支店を絞らざるをえない状況が浮き彫りになっている。無理な働き方は事故につながり、高額な賠償を要求され、借金をし、それを返すために働く。同社の労働環境が「アリ地獄」と呼ばれるゆえんだ。

■「母親役」の退社

 引越社の空雅英(そら・まさよし)社長は生え抜きで10年に就任した。ただ、実権を握るのは創業者の角田朝男副会長だ。会長職は空席。角田氏は、「業界でまだトップじゃないから、会長は名のらない」と周辺に話している。

中央が角田朝男副会長(2013年1月)省略

 引越社の前身である角田運送は、角田氏が20代前半の1971年、夫婦で愛知県名古屋市に設立した。アートの創業夫婦による起業物語がドラマになったように、角田夫妻も「当時はマンションの一室に電話をひき、トラック一台でビジネスを始めた」(同社幹部)。名古屋での基盤を固め、91年に関西に進出。安値攻勢で、シェアを伸ばし、2000年には関東1号店を開業。05年までに売上高を275億円にまで押し上げた。ただ、これがピークだった。

 「角田氏の性格は攻撃型。成績がトップならボーナス10、最下位は0と、信賞必罰が激しかった」(現役幹部)。一方、妻の淑子社長(当時)はそんな夫をいさめる母親役で、従業員の信望も厚かったという。だが、夫婦の二人三脚も2010年に終わった。淑子社長は退社し、角田との婚姻関係も解消されたからだ。

 現役時代の淑子社長を知るある元従業員は「副支店長になるための試験準備を手取り足取り教えてくれた。役員なのに、こんな末端にまで教えてくれるなんて、感動しました」と振り返る。

 引っ越し業は、「主婦産業」とも呼ばれる。トラック運転や家具などの荷物を運ぶため、男性向けの職場と思われがちだが、引越業者を選定するのは、家庭の女性が大半。「淑子社長の温厚な性格は、女性のきめ細やかな視点をサービスに取り入れるのに不可欠だった」(元従業員)

■日給1万円のはずが

 「うちだけじゃないんですね、ひどいのは」。大手の引っ越し専業会社の都内の支店でアルバイトをする高校生はこう漏らす。「僕なんか、日給が最初に聞いていた額より少ないのですよ。休憩時間もないことがたびたびあります」。高校生が契約時に提示された条件は、1日9時間、そのうち休憩1時間で日給1万円というものだった。だが、実際の支給額は7991円で、1時間の休憩時間がない日がほとんどだ。支店長に問い合わせても「それは本社マターだから」といって、まじめに取り組む気すらないという。

 「新生活を応援します」。引っ越しシーズンを迎え、各社のキャンペーンが花盛りだ。だがその裏には、過当な値引き競争と人材不足という構造的な矛盾が蓄積している。新たな出発のイメージの下で、酷使されるのは若い世代だ。

 「今後バイトを探す時に、ブラック企業でないところを見つけるコツはなんでしょうか」。男子アルバイトは数日内に同社を辞め、新しいバイトを探す。

(飯島圭太郎)

 

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