畠山 奉勝: 喧しい解雇規制緩和論について

喧(かまびす)しい解雇規制緩和論について  

政府の産業競争力会議において「解雇規制緩和」論が提起されて以来、さまざまなメディアがこの問題を取り上げている。筋道を丁寧に説明する論者がいる半面、読者(視聴者)が飛びつくような取り上げ方をするメディアなど、一部の労働法学者が嘆くとおり国民を混乱させているように思われる。とくに、テレビ討論などみると、出席者は自分が関心のある部分がまるで全体を律する本質的な問題であるかのようにしゃべる。そのような議論をいくら重ねても問題の核心に接近しないし、解決方向も見出せない。

経営者側は、「整理解雇法理」があるために、経営危機に直面したり余剰人員が発生しても解雇しにくい(現実は整理解雇について司法は柔軟な判断を下しており、解雇できないわけではない。)と認識していて、もっと柔軟に解雇できるようにしてほしいと願望している。金銭を払えば解雇できる仕組みさえ提起されている。このような経営者側の願望が実現していない中で、その裏返しで、解雇せずに、「追い出し部屋」などという陰湿な退職勧奨システムをとっている。また、中小・零細企業においては、「解雇権濫用法理」を無視した解雇が蔓延している。

そこで、今の日本の解雇規制法制について。

労働契約法第16条『解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする。』  私はこの条文こそ労働契約法の中でも最も格調高いものと考えている。この法理が解雇規制の最上位に位置するものである。この条文の一体どこに問題があると言うのか。基本的にはこの16条で、すべての解雇の妥当性を判断できるものと考える。

そもそも解雇には個別労働者の「通常解雇」と、経営不振などによる余剰人員を整理する「(集団)整理解雇」に分けられる。後者の整理解雇の妥当性についても本来、16条の解雇権濫用法理で裁くことが可能であるが、労働者及び社会に与える影響が大きいため、企業が事前に準備・対応しやすいように、客観的合理性と社会的相当性の内容を噛み砕いて4要件(4要素)として提示しているものと解する。当然のことであるが、司法府は「客観的合理性」と「社会的相当性」をもって判断するわけである。これまでの日本企業においては、その雇用慣行として、労働者を「職務や勤務地を限定しない」使い方をしてきたのであり、また、「社会」もそのような日本的雇用慣行を良しとして支持・容認してきたわけで、したがって、司法はその慣行を「社会通念」として判断を下してきたことになる。

このような社会の論理や仕組みが経営側に不都合だというのであれば、かつて社会全体が支持・容認してきた「日本的雇用慣行(その核心は一生面倒みるという雇用契約)」を見直すことが、問題解決の本質的テーマではないのか。「職務や勤務地を限定せずに(できれば)一生面倒みるよ」という雇用契約に不都合があるならば、「職務と仕事を限定した労基法上の本来の雇用契約」を導入すればよいではないか。日本的雇用慣行については、労働者の価値観の多様化や使用者による強大な人事権発動への反発など、労働側も問題を提起しているのである。これまでの日本的雇用慣行を見直して、新時代の雇用システムが社会に受け入れられて定着すると、それが「社会通念」に昇華するわけである。口幅ったいが、社会通念とは、社会の多くの人々が納得している文化と思想である。

間違っても、労契法16条を見直せとかという論議にはならないはずである。16条こそ、労使が正常な労働関係を維持するための最高の拠り所である。むしろ、この16条の恩恵を受けない、16条にアプローチできない労働者がゴマンといることが問題なのである。全国の労働局に寄せられる民事上の個別労働紛争相談件数が26万件もあるのに、労働審判と民事訴訟を含めて7千件程度しかない、このギャップこそ問題なのである。26万件のうち7〜8割は雇用終了事案であると推測されるから、これらの事案は本来ならば司法の場において、16条に基づいて裁かれるべきなのである。

繰り返して言いたい。今、経営者側及び労働者側双方にとって見直すべき問題は、「日本的雇用慣行」の現時代的見直しなのである。これまでの日本の正規社員の働き方はもっと多様化されなければならないと考える。世界を駆け巡るエリート労働者、家庭を大事にする良き親と仕事を両立させる労働者、好きな土地を離れたくない労働者、嫌な仕事はしたくない労働者、どれが上でどれが下という問題ではない。人の人生や生き甲斐は人それぞれである。企業には労働者に対して価値観を押し付ける権利はない。時代のキーワードは「diversity」である。このことを通じてこそ、労働者も使用者も元気になれるのである。

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