東京新聞 2014年3月22日
第二次大戦末期、本土防衛の捨て石とされ、住民を戦闘に巻き込んだ沖縄戦から六十九年。南国の光あふれる島に刻まれた戦禍の歴史を受け継ぎたい。
那覇市から西へ約四十キロ、慶良間諸島の東端に位置する渡嘉敷島。島の中央にある村役場に近い山裾に、その穴は残っている。
近くに住む小嶺正雄さん(84)が造った防空壕(ごう)。三人も入ればいっぱいになる小さな壕だが、米軍が沖縄本島に大規模な空襲を仕掛けた一九四四年秋、決戦が近いと聞いて一人で掘り上げたのだ。
◆島に刻まれた記憶
そんな壕も米軍の圧倒的な火力の前では何の役にも立たなかった。四五年三月二十三日から、同諸島を取り囲んだ数百の艦艇が空襲と艦砲射撃を始めた。
二十六日には座間味島に、二十七日には渡嘉敷島に米軍が上陸。逃げ場を失った島の人々は山の中に集められ、軍の手りゅう弾を使い、肉親の間で手にかけていった。本土決戦を覚悟した日本軍部が時間稼ぎのために沖縄を捨て石としたとされる戦闘。県民の四人に一人が亡くなった「鉄の暴風」の中で、悲惨さを象徴する集団自決である。
千人以上ともいわれる沖縄戦での集団自決の犠牲者のうち、七百人が座間味、渡嘉敷の島に集中したのは、日本軍の海上特攻基地があったためである。秘密保持のため島民は島外に出られなかった。沖縄本島では行われた子どもや女性の県外疎開も、島ではなかった。情報も交通も閉ざされた島で、「生きて虜囚の辱めを受けず」と教えられた島民は命を絶つしかなかった。
四五年八月の敗戦から七二年までの二十七年間、米軍政下に置かれた沖縄。その戦後は「基地の島」として始まった。
◆捨て石にしない決意
沖縄をアジア戦略の重要拠点と位置づけた米国は、サンフランシスコ平和条約の発効によって日本が独立した後も、軍用地のための強制的な土地収奪を続けた。圧政に対する沖縄の怒りは五〇年代半ば「島ぐるみ闘争」と呼ばれる抵抗運動に発展する。
復帰後の今も基地の周辺では米兵の性犯罪など事件が絶えない。だが、日米地位協定によって不十分な捜査と処罰しかできない。沖縄戦を学徒兵の一員として戦った元衆院議員古堅実吉さん(84)は「沖縄は今も、日本の憲法の下に復帰したとは言えない」と話す。
九五年に起きた米兵による十二歳の少女暴行事件を発端に、「世界一危険な基地」といわれる米軍普天間飛行場(宜野湾市)の返還が約束されたが、その移設地として名護市の辺野古に新たな基地建設が進められようとしている。
県選出の自民党国会議員、同党県連が「辺野古容認」へと立場を翻し、「県外移設」を公約して再選した仲井真弘多知事も昨年末、政府の要請を受け入れる形で辺野古の埋め立て申請を承認した。
与野党がともに県外移設を求める「オール沖縄」は崩れたが、今年一月の名護市長選では、辺野古移設に反対する稲嶺進氏(68)が再選、地元の強い意思を示した。
沖縄は今年、島の将来を決める重要な政治決戦を迎える。その天王山は十一月に予定される知事選だ。沖縄を半永久的な基地の島としない、負けられない闘いだ。
日米両政府の普天間返還合意から十八年たっても、なお混迷を深める移設問題が、戦後六十九年を迎える沖縄の現実を物語る。
それはこの間、本土が沖縄の思いを忘れ、こたえようとしなかった裏返しでもある。
地元の合意がないままの基地建設など許されるはずがない。今こそ、あの戦争で捨て石とした沖縄を、二度と捨て石にしないという決意を持ってこたえるべきではないだろうか。
二〇〇七年の教科書検定で、集団自決への「軍の関与」が削除されようとしたとき、小嶺さんら体験者は証言に奮い立った。自らは手りゅう弾が不発に終わって生き延びた。このままでは歴史の事実がいつか本当になかったことにされてしまう。そう感じたのだ。
元中学校校長の吉川嘉勝さん(75)も危機感は同じだ。定年後は再び故郷の渡嘉敷島に戻り、島に残る戦跡の保存に駆け回る。
◆残さなければ消される
過去の歴史を覆い隠し、再び戦争のできる国へと舵(かじ)を切ろうとする大きな力への抗(あらが)いでもある。
小嶺さんが詠んだ歌がある。
< 戦さ場ぬ憶(うむ)い 忘る時ねえらん 子孫(くぁんまが)に語(かた)て 平和願(にが)ら 命(ぬち)ど宝 >
希少な生物が生息し、サンゴ礁の海に囲まれた慶良間諸島は今月、国立公園に指定された。明るい光に包まれた島々の記憶を、小嶺さんは三線(さんしん)をつま弾きながら語る。鎮魂の季節を迎えた沖縄。底に流れる思いをかみしめたい。