毎日社説: 戦後70年・ピケティ現象 希望求め議論始めよう

http://mainichi.jp/opinion/news/20150103k0000m070088000c.html 毎日新聞 2015年01月03日 

 各地の図書館で今、ある本の貸し出しが長い順番待ちになっている。フランスの経済学者トマ・ピケティ氏の「21世紀の資本」だ。日本語訳が先月8日発売された。

 東京都文京区立図書館は所蔵3冊に予約が200人以上。1冊を100人以上が待つ図書館もある。

 英仏米、日本など20カ国の過去100年以上にわたる経済統計を解析。土地や株などの資産を活用して得られる利益の伸びは、人々が労働で手にする所得の伸びや国の成長率を常に上回ることを明らかにした。

 ◇資本主義の疲労に直面  「資本主義のもとでは、資産を持つ人がますます富み、持たない人々との格差が広がり続ける。富も貧困も世襲されていく」と分析している。「資本主義の疲労」とも言うべき現状と今後への警告だ。  50万部の米国をはじめ世界で100万部売れた。とはいえ、700ページを超える学術研究書で1冊が5940円(税込み)もする。邦訳版を出したみすず書房も、日本での反応は予想しづらかった。

 格差への抗議活動「ウォール街を占拠せよ」が起きた米国。若者の高い失業率などで不満がくすぶり、極右勢力が伸びる欧州。そうした下地もあり、ピケティ氏の問題提起に呼応するような動きが、昨年初めから欧米で広がった。

 スイスで昨年1月に開かれた「世界経済フォーラム」の総会(ダボス会議)の主要議題は「所得格差の是正」「貧困の解消」だった。格差が、持続的な経済成長や企業の発展にとって大きな足かせになるという認識だ。世界の政治、経済のリーダーたち、つまり持てる人々がこの問題を重視した意味は小さくない。

 その翌週、オバマ米大統領が一般教書演説で格差是正に言及した。「景気は回復しているが、多くの米国人は生活を向上させるためでなく、生活を維持するために、長時間働かざるを得なくなっている」と最低賃金の引き上げを約束した。所得格差是正が、国の安定に欠かせないとの考えだ。

 昨秋の国際通貨基金・世界銀行の年次総会でも「所得格差と機会の不平等」が議題になった。

 意外な人も口を開いた。歴史的な金融緩和策で、世界に金あまり状況を生み出している米連邦準備制度理事会のイエレン議長である。

 昨年10月の講演で「富裕層の所得や富が著しく増大する一方、大半の所得層では生活水準が低迷している。これは明白だ」と指摘し、「こうした傾向が、わが国の歴史に根ざした価値観、なかでも米国民が伝統的に重きを置いてきた『機会の平等』に照らしてどうなのか」と話した。金融政策も、格差問題を避けて通れなくなっているのだ。

 日本では、どうだろう。  非正規雇用やシングルマザーの貧困などが取り上げられても、社会を巻き込むうねりや問題提起にはなっていない。政治、経済の指導者が正面から向き合って、何かを語ることもない。逆に、現在進行中の経済政策は「持てる者に向けた政策こそが、すべての問題を解消する」といった考えに基づいている。

 ◇立ちすくまず向き合う  しかし、この国でも「疲労した資本主義」と、その先に待つものを心配する人は少数ではなかった。

 みすず書房によると、「21世紀の資本」の読者層はビジネスマンにとどまらない。女性や高齢者も手に取り、大都市だけでなく地方でも売れている。日を追って次第に読者の裾野が広がっているという。

 この本を手にする人に限らず、世界のさまざまな場所で人々は今、経済や社会の行く末に疑問や不安を抱えている。

 「個人の努力や才能が、正当に評価されない世の中がやってくるのではないか」

 「社会の安定を欠き、民主主義を支える基盤を弱めはしないか」

 「積もり積もった不満を栄養として、全体主義や排外主義が大きく育っていくのではないか」

 「格差が拡大する傾向と『イスラム国』の台頭は関係ないのか」

 こうしたさまざまな問題に、どんな答えがあるのだろうか。一人一人はどう行動すればいいのか。多くの人がそう思い、考え、論じていきたいと願っている。

  ピケティ氏は、格差を解消するため、国際協調による「富裕税」の創設を唱えている。専門家は「非現実的だ」とそっけない。だが、結論は何ら出ていない。まさに論争はこれから始まる。本を読んでいなくてもいい。議論に加わろう。

 「疲労した資本主義」の先にあるのは、社会の分断や混乱とは限らない。新たな価値観に根ざした希望かもしれない。問題の大きさや困難さに目をそらしたり、立ちすくんだりしてはならない。きちんと向き合い、考えることが大切だ。  「ピケティ現象」を希望を見いだすための論争の幕開けにしたい。

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