牧内昇平さん「「すてきな人を見つけて再婚して下さい。ゴメンネ」…夫が自死」 (9/27)

連載働く普通の人々に忍び寄る「過労死」という悲劇【第5回】
「すてきな人を見つけて再婚して下さい。ゴメンネ」…夫が自死
https://gentosha-go.com/articles/-/23333
牧内 昇平 2019.9.27

「すてきな人を見つけて再婚して下さい。ゴメンネ」…夫が自死

本記事では、朝日新聞記者・牧内昇平氏の著書、『過労死: その仕事、命より大切ですか』(ポプラ社)より一部を抜粋し、長時間労働だけでなく、パワハラ、サービス残業、営業ノルマの重圧など、働く人たちをを「過労死」へと追いつめる職場の現状を取り上げ、その予防策や解決方法を探っていきます。

「幸せに出来なくてごめんなさい」
どれだけ長く働いても給料が増えない──。そんな悩みをもっている人は少なくない。住宅リフォームの営業マンだった後藤真司さん(仮名・当時48)は、2011年1月、埼玉県内の自宅で自ら命を絶った。「85時間分の残業代を基本給に含む」という厳しい条件のもとで、長時間労働を行っていた。

〈初めてメールいたします。本日の記事を読ませていただき、2年前に自殺した主人を思い出しました〉

わたしがこんなメールをもらったのは、2013年2月の朝だった。そのころ、新聞に過労自死をテーマにした連載を書いていた。システムエンジニア、自動販売機に飲料を運ぶドライバー、役所の納税課職員……。働きすぎで自ら命を絶った人びとのことを書いていた。読者からの手紙やメールはどれも大切に目を通しているが、埼玉県の後藤夏美さん(仮名)から届いたこのメールは、ひときわ印象深かった。わたしはすぐに返信し、会う約束をとりつけて後藤さんの自宅に向かった。

埼玉県東部の川沿いにたつ5階建てのマンションに、後藤さん一家は住んでいた。玄関を入ると長男と長女の部屋がそれぞれ一つ。廊下を進んだ先に、居間と、以前は夫婦で使っていた畳敷きの寝室があった。

6畳ほどの寝室には仏壇があり、真司さんの遺影がかざられていた。30代半ばのころ、家族でキャンプに行ったときのものだという。がっちりした体格で太い眉のりりしい男性が、白いポロシャツを着て快活に笑っていた。「このころが一番幸せだったはず」と、夏美さんが選んだ一枚だった。

遺影のとなりにはどら焼きやまんじゅうが供えられていた。

「主人は甘い物に目がなかったので……」と、夏美さんが少し照れながら話してくれた。

真司さんとの別れは突然おとずれた。2011年1月13日、朝6時10分に目をさました夏美さんは、となりで布団にくるまる娘を起こさないように、そっと部屋を出た。そのころ夏美さんは高校生の娘の部屋で寝るのが常になっていた。早朝4時台に起きて寝室で仕事をはじめる真司さんを気づかってのことだった。

真司さんはもう起きているはずなのに、寝室からは物音一つしない。いやな予感がした。

「おはよう……」

小さく声をかけながら寝室のふすまを開けた瞬間、全身が凍りついた。仕事机にしていたコタツの横に真司さんが倒れていた。すでに体は冷たく、手遅れであることは察しがついたが、119番に電話をかけた。娘と大学生の長男を起こし、「絶対に部屋から出てはダメ」と伝えた。自分が目にした光景を、子どもたちに見せてはいけないと思った。

寝室に戻って改めて部屋を見回すと、机の上にA4サイズの白い紙が置いてあった。角張った字が間隔をそろえてきれいに並んでいた。見慣れた夫の筆跡だった。

〈幸せに出来なくてごめんなさい〉
〈すてきな人を見つけて再婚して下さい。ゴメンネ〉

夏美さんは、倒れている夫のそばに立ち尽くすしかなかった。

営業関連の部署異動をきっかけに転職をはたしたが…
「夫は根っから設計が好きだったんです」

ダイニングテーブルに差し向かいで座ると、夏美さんはテーブルの上で両手を組み、真司さんの半生をふり返ってくれた。

北海道生まれの真司さんは地元の高等専門学校で建築を学んだ。卒業後、住宅用の建材メーカー大手に入社。ドアやサッシの設計に長く携わる。転機は営業関連の部署への異動だった。設計の仕事にこだわりがあった真司さんは、思い切って退職し、同業の中小企業に入り直した。2008年4月のことだ。

会社の規模は小さくなるが、もう一度設計の仕事ができる。そう喜んだ真司さんだったが、新しい職場は1年もたたないうちに世界的な経済危機「リーマン・ショック」の荒波にのまれてしまう。

「会社の経営が行き詰まった。きょう突然、聞かされた」。帰宅した真司さんがそう切り出したのは、同じ年の12月のことだった。「リーマン・ショック」の影響で銀行が融資をやめたため、会社の資金繰りが一気に悪化したという。近く倒産する見通しになり、真司さんは泣く泣くもう一度、職探しをはじめた。

急激な不景気のなかでの転職は苦戦続きだった。面接を受けても不採用が続き、3カ月後にようやく見つけたのが、中堅住宅メーカーのA社(仮名)だった。

A社に採用が決まった2009年3月6日のことを、夏美さんは克明に覚えている。

この春、後藤家は高3の息子、中3の娘のダブル受験のまっただ中だった。そこに真司さんの職探しも加わり、なにもかもが不安定な日々だった。

3月6日の昼、長男が有名私立大の法学部に合格した。長女はすでに私立の高校に受かっており、「これで受験は切り抜けた」と家族で喜んでいると、こんどは真司さんに吉報が届いたのだった。

家族全員の肩の荷が下りたことを祝して、みんなで近くの回転寿司屋に出かけた。300円、400円の皿が中心のちょっと高級な店だった。

「もう大丈夫だ。何色の皿でも食べていいよ!」

真司さんはそう言って、機嫌よく好物のウニをぱくついた。長男もトロをたくさん食べた。「よかったよかった」と、みんなでくり返した。

真司さんが心からの笑顔を見せたのは、この日が最後になってしまった。

「目標」が達成できないことを強く気に病んでいた
〈拡大しているリフォーム市場で残りの人生を賭けて勝負したく転職を決意しました〉

会社に提出した職務経歴書にはそう書かれていた。不況の折、希望する設計の仕事を再び見つけることは難しかった。「それならば」と選んだのが、住宅のリフォーム営業の仕事だった。同じ住宅関連なので設計の知識が生かせると踏んだのだ。

配属されたのは、自宅から車で1時間ほどかかる千葉県内の支店だった。一軒家の家主に電話でアポイントをとって訪問し、家のなかを点検してリフォームを提案する。そんな仕事だった。

まずみてほしいのは、後藤さんがかかえていた営業目標である。「顧客営業の目標設定」というタイトルの社内文書には、こうあった。

「顧客営業基準」
月点検数16件以上
月契約単価1400千円×契約6件≒8000千円
年点検数16件以上×12カ月=192件以上
年度予算8000千円×12カ月=96000千円

月に16件以上の訪問点検をおこない、800万円以上の契約をとる──。こうした基準があり、真司さんもこの売り上げ目標をめざして営業を重ねていた(別の資料によると、2010年秋から真司さんの目標は1千万円に引き上がっている)。だが、入社から自死までの2年弱で、真司さんが目標をクリアできたのは6回だけだった。達成率は27%ということになる。

支店のリフォーム部門のリーダーは、労基署の調査に対してこう答えている。「(営業目標は)ノルマという訳ではない。成績が落ちていることを問い詰めたこともない」

だが、少なくとも当の真司さんは目標が達成できないことを強く気に病んでいたようだ。その証拠が、一日の仕事の終わりに書く、業務日報だ。真司さんの月末の日報にはおわびの言葉が並んでいた。

〈大型物件の失注や来月への商談延期で1770万円分が今月契約とはなりませんでした。1件でも契約となれば目標をクリア出来た次第で、詰めの甘さで非常に悔しい思いをし、支店の方々へもご迷惑を御掛け致しました。誠に申し訳ございません〉(2010年7月31日)
〈支店の予算に多大なご迷惑をお掛けして申し訳ございません。目標未達の焦りから数字を取りにいって、お客様目線での提案や会話が不足しているのが、契約に繫がらない要因かと考えます〉(同年10月30日)

亡くなる2週間ほど前の日報には、こう書いていた。

〈目標10000千円を達成出来なく誠に申し訳ございません。支店長が朝礼で言われたように、節目節目でテンションを上げて実績を出せるよう来年から心機一転頑張ります〉(同年12月28日)

目標をクリアしようともがいていた真司さんは、しだいに働く時間が長くなっていった。深夜の帰宅がふえ、早朝から仕事をはじめるようになった。のちに夏美さんが弁護士とパソコンのログイン・ログアウトの記録を集計すると、30日間の残業が100時間近くになる期間もあったという。
(続)


牧内 昇平
朝日新聞記者
1981年3月13日、東京都生まれ。2006年東京大学教育学部卒業。同年に朝日新聞に入社。経済部記者として電機・IT業界、財務省の担当を経て、労働問題の取材チームに加わる。主な取材分野は、過労・パワハラ・働く者のメンタルヘルス(心の健康)問題。 

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