朝日新聞 2008年7月29日 朝刊
(消えた安全網 最低賃金の現場から:上)しわ寄せ 時給731円
大阪市営地下鉄の清掃員として働く60代男性の時給は、大阪府の最低賃金(最賃)と同額だ。数年前にも同じ仕事をしていたが、当時の時給は今より約100円高かった。
「市の財政は赤字でどうもこうもならん。だから、わしの時給が731円なんやろうか」。ほうきダコができた手のひらを見つめた。ホームやトイレの清掃から駅員が仮眠する寝具の交換まで、大半は肉体労働だ。雑誌など重いごみの回収では手の筋肉がひきつる。「あと20分で終わりや」「もう10分で」と自分に言い聞かせながら働く。
時給低下の背景には、市が06年度に導入した駅清掃事業の一般競争入札がある。132ある駅の清掃を、22区域にわけて民間委託した結果、業者間の受注競争が激化。清掃労働者の賃金は時給800円以上が相場だったが、一部ではこの男性のように、750円を割り込んだ。
それでも働き続けるのは、年齢の壁で職が見つからず、1年近く無職だった時期の苦しさが身に染みているからだ。新聞折り込みの求人を頼りに何件応募しても、「年はナンボですか」と聞かれて終わりだった。
当時は年金と妻のアルバイト代のみが頼りで、月収は12〜13万円。家賃7万円と光熱費、医療費などを差し引くと、食費に事欠く日もあった。果物や野菜の切れ端を求めて、早朝の青果市場に足を運んだこともある。
「60歳超えてほかに働き口はないし、文句は言えない。仕事せなんだら食べていかれへん」
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市交通局によると、一般競争入札を導入した06年度を境に、駅清掃の委託料は急減。05年度の約14億5千万円から08年度は約6億5千万円まで下がった。大幅なコストダウン。その裏側で、受注に失敗した業者の清掃員は解雇の不安にさらされ、雇用がつながっても賃金減という現実に直面している。
「そのうち全員が最低賃金になってしまう」
3年前から清掃員として働く女性(61)は、表情をこわばらせる。この女性の会社は、まだ時給換算で800円台半ばを維持している。だが、各種手当の縮減で月収は約1万7千円減り、夏冬5万円ずつだったボーナスも全額カットされた。
現在の手取りは約12万円台。パンやめん類、調味料……。値上がりしたスーパーの値札を見るたびうんざりする。「家賃が6万5千円、光熱費やら何やらでギリギリ。時給731円に下がったら生活できません」
ダンピングを防ぐため、駅清掃の入札に「低入札価格調査制度」を適用した、と市交通局は言う。予定価格の6割を切る入札があれば、清掃員の数など見積もり根拠を調べ、きちんと事業を実施できるか確認する。
調査では人件費もチェックした。その指標となったのは、やはり最賃だ。市交通局は「法令順守の意味で最低賃金を払えるかどうかは確認する。それ以上のことを業者に指摘することは難しい」と説明する。
歯止めとなるべき最低賃金。しかし、政府試算(05年度時点)でも、大阪を含む11都道府県は、最賃をもとに算出した月収が生活保護の支給額を下回る。
一部業者の清掃員が加入する全日本建設交運一般労働組合では、入札の見直しを求めるのと並行し、最賃の大幅アップを訴える。同労組の建設一般合同支部の吉谷通書記長は「コストカットのしわ寄せが末端の労働者に及んでいる。労働者の収入が生活保護のレベルを下回るのはおかしい。生活をきちんと保障する最賃が必要だ」と話す。
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労働者の暮らしを底支えする最低賃金制度。ワーキングプアの拡大や物価上昇のなか、最賃は働く人の「安全網」として十分な役割を果たしているのか。3回にわけて現場から考える。(清川卓史)
●日本、先進国で最低水準
現在の最低賃金は全国平均で時給687円。98年度から10年間の引き上げ幅は50円にとどまる。イギリス(1115円)、フランス(1321円)などを大きく下回り、先進国では最低水準。日本より低額だった米国も、07年7月から2年間で段階的に731円まで引き上げる見通しだ=グラフ。
生活保護と最賃の比較は算定方法で論議があるが、政府と労使代表らの「成長力底上げ戦略推進円卓会議」に政府が示した資料によると、全国平均の最賃(06年度)は生活保護の支給額を時給換算した場合を29円下回っていた。同志社大学の橘木俊詔教授は「フルタイムで働いても手取り12万円を割る。それだけでは食べていけず、最賃は『安全網』として機能していない」と言い切る。
なぜ、ずっと低額で推移してきたのか。橘木教授は、低賃金で働く人の多くが、若者や主婦のパートで、親や夫の収入に頼れるとされてきたからだと分析。「近年は離婚率や未婚率も上昇し、母子世帯や独身の年長フリーターなど、本人の賃金だけで食べていかざるを得ない人が増えた。そうした層を支える政策が必要だ」と指摘する。
7月には「生活保護との整合性に配慮する」ことを明記した改正最賃法が施行。08年度の最賃引き上げ幅の「目安」を決める国の議論が大詰めだ。労働側は大幅引き上げを求めるが、経営側の反発も強い。
◆キーワード
<最低賃金制度> 国が強制力をもって賃金の下限を決め、その金額未満で労働者を雇うことを禁止する制度。都道府県ごとに定め、全労働者に適用される「地域別最低賃金」と、特定の産業につき地域別最賃より高い金額が設定される「産業別最低賃金」の2種類がある。最賃を下回る労働契約は無効とされ、使用者には罰金が科される。
■最低賃金の国際比較
フランス(07年7月) 1321円
オーストラリア(07.10) 1281円
イギリス(07.10) 1115円
アメリカ(07.7) 590円(2年後、731円に引き上げ予定)
日本(07.10) 687円
(08年3月為替レートで換算。「成長力底上げ戦略推進円卓会議」資料から作製)
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【写真説明】
ゴミを回収するかごを引きながら、ホームの手すりをふく地下鉄の清掃員=23日、大阪市内、小玉重隆撮影